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社長対談 人となり 大和ハウス工業株式会社 代表取締役社長 芳井 敬一氏

IIJ.news Vol.171 August 2022

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。
第24回のゲストには、大和ハウス工業株式会社代表取締役社長の芳井敬一氏をお招きしました。

大和ハウス工業株式会社

代表取締役社長

芳井 敬一氏

昭和33(1958)年、大阪府生まれ。昭和56(1981)年3月、中央大学文学部哲学科卒業。神戸製鋼所の関連会社を経て、平成2(1990)年6月、大和ハウス工業株式会社入社。平成17(2005)年4月、神戸支店神戸建築営業所長。平成18(2006)年4月、姫路支店長。平成20(2008)年4月、金沢支店長。平成22(2010)年4月、執行役員。平成23(2011)年6月、取締役上席執行役員。平成25(2013)年4月、取締役常務執行役員。平成28(2016)年4月、取締役専務執行役員。平成29(2017)年11月、代表取締役社長に就任、現在に至る。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役社長

勝 栄二郎

大事に育ててもらった幼年期

勝:
本日は、難題にも臆せず立ち向かっていく芳井社長のリーダーシップはどのように形成されたのかということや、経営者の理念・目標をどのように実現していくのかといったことをぜひうかがいたいと思っています。
まずは芳井社長の幼少期のお話からお聞かせいただけますか。
芳井:
私の記憶に残っているのは、母が口にしていた「貧乏人の坊ちゃん」という言葉です。これは「うちは金持ちじゃないけど、あなたは大事に育てられたのよ」という意味です。
実は、私には2人の兄と姉がいたのですが、兄は2人とも死産で、姉は生まれて間もなく亡くなったそうです。私が生まれてくる前に、母は3度も辛い思いをしていた。そこに私が生まれてきて、今度こそは必ず無事に大きくなってほしいということで、父は母に「絶対にカゼなどひかせてはならない」と厳命し、寒い日には私の頭から湯気が出るくらい毛布をかぶせていたそうです。それくらい過保護に育てられた反面、しつけに関してはすごく厳しかった。私の実家には仏壇があって、お寺さんがお経をあげにくるような家だったのですが、よほど私が言うことを聞かなかったのか、日曜日には教会の日曜学校に通わされていました。
勝:
そうでしたか。
芳井:
後年、弊社の樋口(武男)元会長(現最高顧問/2001年~04年まで社長)から「お前はうまく育ててもらっている。そのことを両親に感謝しなければならない」と言われたことがあります。具体的に何についてそうおっしゃったのかはわかりませんが、それを聞いた母は号泣していました。
勝:
たいへん素直に育ったということではないですか?
芳井:
いえいえ、わがままだったと思いますよ。両親は、私をあまり人に預けたくなく、できるだけそばに置いておきたかったようで、私は幼稚園や保育園にも1年足らずしか通っていないのです。もちろん、私が記憶しているわけではなく、母が残した記録を見ると、どうやらそうらしい。
勝:
高校入学を機にラグビーを始められたそうですが、どのようなキッカケがあったのですか?
芳井:
高校では野球をやりたかったのですが、入学した高校に野球部がなかった。たまたま中学の野球部の先輩がその高校のラグビー部にいて、「(ラグビー部に)入れや!」と言われて、とても怖い先輩だったので、これは入るしかないな……と(苦笑)。
ちょうどその頃、中村雅俊さんの『われら青春』というラグビー部を舞台にしたTVドラマがありまして、そうした番組にも影響されたのかもしれませんね。
勝:
ラグビーは荒々しいスポーツですが、ご両親は反対されなかったですか?
芳井:
あの時は、自由にさせてくれました。性格的に、ここ一番では気持ちも入るほうだったので、そういうところも見てくれていたのだと思います。
勝:
ご両親も期待されていたのでしょうね。
芳井:
「がんばってほしい」と願っていたと思います。

ラグビーから学んだこと

勝:
ラグビーは最初から長く続けるおつもりだったのですか?
芳井:
高校で出会った進藤監督の存在が大きかったです。1年生の夏合宿で「お前は(勉強ではなく)ラグビーで大学に行け。東京の大学のセレクションを受けろ」と言われたのです。1年生でそんなことを言われて、すっかりその気になりました。監督のことを信頼していましたから、そういった言葉がなければ、その後も続けたかどうかわからないですね。
勝:
それで中央大学に進学された。
芳井:
はい、監督も喜んでいました。
勝:
ラグビーの魅力は何ですか?
芳井:
ラグビーの世界は縦社会でして、学校や実績に関係なく、年次、つまり生まれてからの年数で全てが決まります。それが自分には合っているのだと思います。
ラグビーはとても単純で、一歩でも前へ進んで陣地をとっていくスポーツです。1人が犠牲になって相手の選手を2人引きつけることができれば、味方の選手が余るのでそこにボールを回せばいい。明治大学ラグビー部を長年率いた北島(忠治)監督の代名詞が「前へ」でしたが、そういった精神が自分には腹落ちしました。
ラグビーでいちばん怖いのは、正面からまっすぐ走ってくる選手です。そこにディフェンスをしにタックルに行くのはとても勇気がいります。しかし、斜めに走っている、逃げている選手なら、どんなに足が速くてもつかまえることができます。
今でも仕事で何か起こった時には言うのですが、問題にまっすぐ正対しないで斜に構えた瞬間、足元をすくわれるぞ、と。「怖いな」と思ったら躊躇してしまい、躊躇したら必ずやられる。これはラグビーから学んだことです。
勝:
逃げちゃダメなのですね。
ラグビーで大きなケガなどされたことはないですか?
芳井:
大学4年の夏合宿で肩を脱臼して、大学最後の秋のシーズンは、ほぼ試合に出場できませんでした。その時の"消化不良"がなければ、社会人でラグビーを続けることはなかったと思います。
勝:
社会人では神戸製鋼のラグビー部でプレーされました。
芳井:
神鋼のラグビー部には大学の先輩が在籍していたので、神戸製鋼のグループ会社に就職してラグビーを続けました。
勝:
神戸製鋼と言えば、たいへんな強豪ですね。
芳井:
当時はまだそれほどでもなく、関西Aリーグのなかではトヨタが強く、(神鋼は)3位か4位くらいでした。

運命を変えた交通事故

勝:
大きな交通事故に遭われたことがあるそうですね。
芳井:
神戸製鋼ラグビー部を引退して、仕事に打ち込んでいた1988年8月、後ろから走ってきたクルマに追突されまして……。頸椎の椎間板が潰れて、腰の骨を首に移植する手術を受けました。当時としては非常にむずかしい手術だったので、8カ月ほど入院しました。
勝:
そんなに長く入院されたのですね。
芳井:
手術するまでが長かった。神経に関わるので、精神的に落ち着くまでは手術できないと言って、担当医がなかなかオーケーを出してくれないのです。ようやく「ほな、手術しよか」と言ってもらえたのが12月でした。
勝:
それは大変でしたね。
芳井:
実は、ラグビーをやめたあと、「海外で働きたい」と思うようになり英語の勉強を始めて、ニューヨークに短期の語学留学をしたりしていました。
勝:
ニューヨークへは自費で行かれた?
芳井:
はい、そうです。それで当時所属していた建設機械事業部の米国進出が決まって、そのプロジェクトメンバーに抜擢され、いよいよ海外で働く夢が叶うと喜んでいた矢先の交通事故でした。
海外赴任の夢も絶たれ、寝たきりを強いられて、これからどうやって生きていけばいいのかと、挫折感を味わいました。特に手術してもらうまでは精神的にも辛かったですね。
(大学4年の時と同様に)「自分はいつも大切な時にケガをしてしまう」と悔やむ一方、「英語を操ってカッコ良く海外で働きたい」などと浮かれていたから天罰が下ったのだ、ここで人生リセットしよう、と決意しました。

厳しい環境を求めて転職

勝:
交通事故を機に転職を考え始めたのですか?
芳井:
退院後、仕事に関する適性検査を受けると「営業適性がある」という結果が出たのですが、自分では営業は向いてないし、やりたくないと思っていました。母からも「営業と不動産業はやるな」と言われていました(笑)。しかし、どんな適性検査を受けても「営業」しか指さないのです。それなら1度チャレンジしてみよう、と覚悟を決めました。もちろん、8カ月も休んで会社には迷惑をかけていたので、そのぶんを取り返すために1年間、しっかり働きました。
転職に際しては、海外勤務への未練を断つ意味でも、ドメスティックな企業で勝負しようと候補を絞る一方、チャレンジするならいちばん厳しい環境を望んでいたので、仕事がキツいと聞いていた大和ハウス工業を選びました(笑)。
勝:
どうして厳しい環境を選ばれたのですか?
芳井:
32歳でしたから、緩い会社だと勝負できない、難儀なフィールドのほうが成果を出しやすい、と考えていました。
勝:
30歳を超えてからの転職ということで、ご苦労も多かったのでは?
芳井:
たしかに苦労しましたが、中途採用してもらい人生リスタートできたわけですし、大和ハウス工業に入社できて本当に恵まれていました。この会社では学歴は関係ないですし、中途採用の社員がたくさん活躍していました。現に今でも6つある事業本部のうち4つの「長」は中途採用の人財です。
勝:
そうなのですね。
芳井:
私は6月入社だったので、自分の居場所は自分で確保しなければならず、新卒社員と一緒にゴミ捨てや掃除もやりました。仕事を教わるのは皆、年下でしたが、自分は1年生なのだと割り切っていました。体育会で鍛えられたお陰もあって、そうしたことは苦にならなかったです。
その頃は神戸製鋼ラグビー部も強くなっていたので、「神鋼でラグビーをしていた人が来た」と言われて――私は別に大した選手ではなかったですが、こちらが謙虚になれば、逆に大事に受け入れてくれた面もありましたね。

営業の楽しさに目覚める

勝:
まったく異なる業種に転職されていかがでしたか?
芳井:
日々、新しいことをやっているという実感がありましたから、楽しかったです。人財的にもバラエティに富んでいて、根回しなどは皆無ですし、裁量の自由度があり、経理・決済に関しても社員を信用してくれていました。
勝:
ノルマなどはなかったですか?
芳井:
私が配属された部署は、法人の建築営業でしたから、ノルマではなく目標でした。一朝一夕に億単位の仕事がとれるわけではないので、根気よくお客さまのところに通って情報を引き出し、会社と会社を結びつけるうえでの人間関係を築くことが求められていました。ある意味、「作戦」を立てやすい仕事だったので、やっていて楽しかったです。
で、勤めているうちに徐々にわかってきたことがありまして――
勝:
ほう、どういったことですか?
芳井:
かつて、うちの会社には実に多くの"作家"がいたのです!
勝:
作家ですか?
芳井:
実際には行ったこともない社名を挙げて、「○○社の××部長と会ってきました」と、さも営業に行ったかのように報告するのです。最初は気づかなかったのですが、途中から「彼らは想像でドラマを書いているんだ」とわかってきた。そりゃそうですよ、一般職の人間がいきなり先方の部長に会えるわけがないですからね。
そのことに気づいてから、それまでは(同僚が行っていることになっていたので)営業に行ってはいけないとされていた会社にも自分が行っていいんだと思うようになりました。その瞬間、大きなチャンスが到来して、目の前がバッと開けた感じがしたのです。
で、実際に営業に行ってみると、やはりうちの会社の人間は誰も来ていない(笑)。もちろん最初から部長などは会ってくれませんが、少しずつ顔を覚えてもらえるようになりました。
こうした営業活動をうちの会社では「探客」と呼んでいるのですが、「探客」はウソをつきません。言い換えると、「探客」するフリをしている社員にはお客さまから電話などかかってきませんが、本気で「探客」している社員には(今のように携帯電話などない時代でしたから)帰社すると連絡帳に「○○社の××さんから電話がありました」とメモが残されているのです。私が尊敬していた先輩は、そういう連絡を1日に何件ももらっていました。私も「ここに毎日5件くらいメモしてもらえるようになりたいな」と思うようになった頃から、営業の仕事がおもしろくなってきました。

経営者としての役割

勝:
40代後半で所長に抜擢されました。
芳井:
46歳で神戸支店建築営業所長になりました。これはどうしても就きたかったポストだったので、うれしかったですね。当時は人生の着地点はそのあたりかなと考えていました。
勝:
しかし翌年には姫路の支店長になられた。
芳井:
ちょうどその頃、支店長を育成するためのプログラムが発足して、その研修合宿に参加させてもらえました。そして、当時の村上(健治)社長(樋口氏の後任として2004年~11年まで社長)らが私という人間を"見つけて"くださり、あれだけなりたいと思っていた所長を1年で卒業して、姫路支店長にしてくださった。今、振り返ると、あのあたりから自分の人生が(経営者になる方向へ)動き始めたのかもしれませんね。
2年後、弊社にとって非常に重要な位置づけの金沢支店の支店長になったのですが、まさか自分が金沢支店長になるなんて想像もしていなかったので、何が起こったのかわからない――正直、そんな心境でした。その頃になると、私の周りもざわざわし始めて……。
勝:
経営陣が「(芳井社長を)幹部にしよう」と、決めたのでしょうね。
芳井:
周囲からいろんな声が聞こえてくるのですが、冗談半分に「妬み・やっかみは大好物だから」と言っていました(笑)。
ところが、金沢支店長を2年ほどやった頃、今度は「海外事業部に行ってくれ」と言われましてね。最初は「この会社に海外事業部があったのか?」と半信半疑でした。海外を追いかけていた時には掴みそこね、海外を諦めて転職した会社でその夢が叶う――喜びと同時に複雑な気持ちでした。
勝:
海外はどちらに?
芳井:
中国の大連市です。
勝:
その後、執行役員、取締役、常務、専務といった要職を歴任し2017年、代表取締役社長に就任されました。どんなことを期待されているとお考えですか?
芳井:
樋口さんのあとを受けて、村上さんが荒々しかった大和ハウス工業をもっと良い会社にしようと必死に土壌を耕された。そして良い土壌ができあがったところに、大野(直竹)さん(村上氏の後任として2011年~17年まで社長)というまれに見る優れた経営者が現れた。これは私見ですが、人財の素晴らしさに加え、村上~大野という順番が入れ替わらなかったこと自体、奇跡的だったと考えています。
私は(既定の人事に沿って)4月1日に選ばれた社長ではなく、大野さんが体調を崩されて、急きょ(2017年)11月1日に社長に就任しました。ローテーションの谷間、あるいは緊急登板した投手のような役回りであり、まずは「人を育てること」、次に今ある懸案を片付けて、次の世代が成長できる環境を整えること――これらが私に託された課題だと認識しています。
勝:
人財育成に関して、具体的に何かやっておられますか?
芳井:
私の考えを社員にしっかりわかってもらうために、まずは平易な日本語で話すよう心がけています。
例えば、各事業所を訪れた際にも、私が一方的に喋る時間は最小限にして、残りはQ&A形式で対話を行なっています。社員を1年生から3年生までの15名、主任職の15名、管理職の15名とグループ分けし、グループごとに質問してもらって、原則それら全てに私が答えます。対話しているあいだは椅子に坐らず、相手の前で立ったまま話をします。対話の内容は多岐にわたりますが、樋口さん、村上さん、大野さんたちの話も織り交ぜながら、大和ハウス工業のDNAや私個人が伝えたいことをわかりやすい言葉で語るようにしています。
人を動かすには「ああしろ、こうしろ」と指示するだけでは不十分で、実現するための方法と役割を明示してあげないとダメです。1対1で話していて、相手が笑ってくれたら「耳に入っているな」と感じます。
勝:
1人ひとりの役割を明確にすることが大事なのですね。

「前向き人生に損はなし」

勝:
健康のために何かなさっていますか?
芳井:
私は「リセット上手は仕事上手」と言っていまして、最近は、旅行を楽しんでいます。飛行機やホテルの手配なども全て自分でやるんですよ。
勝:
それはすごいですね。
芳井:
先日、鹿児島の妙見温泉に行きました。すぐ近くの霧島に弊社のホテルがあるのですが、そこに泊まると大騒ぎになってリセットにならないので(笑)、わざと別のところに宿泊しました。
勝:
なるほど(笑)。
観劇がご趣味だとうかがっています。
芳井:
そうですね。高泉淳子さんの『ア・ラ・カルト』という舞台を見た時、「お芝居って、こんなに人を明るくして、影響を与えることができるんだ」と感動しました。次に「劇団☆新感線」に出会って、ファンになりました。心を打つ決めセリフがあって勉強になりますね。舞台は大好きであらゆるものを見ますが、最近は大竹しのぶさんを追いかけています。
勝:
最後に若い世代へのメッセージをお願いいたします。
芳井:
私のモットーが「前向き人生に損はなし」なので、若い人にはどんなことがあっても前を向いて、一歩先を行ってほしい。後退を強いられた時でも、180度振り返って進めば、それは前進です。つまり「前を向く」ということを、どう捉えるのかが大事なのです。あとは、遠くの風景を見て、そこに届く方法を考えながら、近場をおろそかにしてはならない、と社員にも話しています。
勝:
たいへん感動的なお話でした。本日はありがとうございました。


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