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IIJ.news Vol.174 February 2023
インターネットが情報通信革命を主導したことは言を俟たないが、はたしてその「本質」とは何なのか?
本稿では、インターネットの本質をコミュニケーションに及ぼした影響の側面から考察する。
IIJ 技術主幹
三膳 孝通
2023年は特別な年になりそうです。インターネットの方向性を決める大きな会議が立て続けに日本で開かれるからです。まず3月にインターネットの技術的な政策を決めるIETF(Internet Engineering Task Force)が横浜で、5月にはG7広島サミットがあり、その関係閣僚会合として参加各国政府のデジタル技術の方針が話し合われるG7デジタル・技術大臣会合が群馬で、そして10月にはインターネットに関する公共政策課題についてマルチステークホルダが対話するIGF(Internet Governance Forum)が国連主催のもと京都で、それぞれ開催されます。
情報通信に関する技術的、政府政策的、公共政策的な議論が日本でなされるのは、たいへん貴重なことであり、ホストとしての日本の役割は非常に大きいと言えます。この唯一無二の機会を、個々の会合としてではなく、日本全体で時代の流れやうねりとして捉え、各方面の課題解決に向けて大きな貢献を果たしていく責務があり、また、世界中から期待されてもいるのでしょう。文化を超え、主義を超え、思想を超えて、さまざまな大切な議論が我々の身近で行なわれます。ぜひ皆さんもこれらの動向に注目し、積極的に関わっていただきたいと思います。
このように節目の年となる2023年の小誌特集の巻頭原稿を書かせていただくことは光栄であると同時に、重圧も感じています。今回は、情報社会を迎えるにあたり、改めて「インターネットの本質」に迫ってみたいと思います。
さて、大上段に構えた「インターネットの本質」ですが……いまだ技術は進化の途上、変化の真っ只中にあるので、例えば、WEB3.0だったり、ブロックチェーンだったり、SNSやプラットフォーマー……といった個別の技術や実装から発想していたのでは、昨今の変化の速度を考えると、アッという間に陳腐化してしまう議論にしかならないと思います。よって、ここではもっと鳥瞰的に、いわゆる産業革命の大きな流れを俯瞰しながら、インターネットに代表されるデジタル・ネットワークがもたらした影響について大局的に考えてみることにします。
第一次産業革命は「印刷技術」の発明、第二次産業革命は「蒸気機関」の発明とされていますが、それらが果たした影響を簡潔に言うなら、「コミュニケーションの効率化・大規模化への寄与」であったと言えます。
人間は、社会をコミュニケーション、つまり言語によって構築しています。コミュニケーションは単に意思の伝達だけでなく、知恵や文化を継承し、社会の継続性をも担っています。そのコミュニケーションの“コスト”を大幅に改善した技術の開発――「印刷技術」は大量の複製を可能にすることでより多くの人達に情報が行き渡るようにし、「蒸気機関」はより遠くの人たちに素速く情報を届けられるようにし、それらによって我々はより大きな社会を維持していけるようになったのです。
よってここでは、コミュニケーションを増幅する技術(以下、「コミュニケーション増幅技術」)こそ、産業革命が社会を変えた本質である、としておきます(インターネット以前にもさまざまな技術が開発されましたが、基本的にはコミュニケーション増幅技術の〝補強〟以上の意味を社会に及ぼさなかったように思います)。
では、情報通信技術の進歩は、どのような影響を与えたのでしょうか? インターネットはデジタル・ネットワークです。情報をデジタル化する、デジタル化したデータをネットワークを介して共有する、という側面を見ると、デジタル化は印刷技術と同じ複製を増幅する技術であり、情報の伝達能力の面から見ると、ネットワーク化は蒸気機関と同じ距離を縮める技術である、と言えます。しかし、そうした効果だけでは、今までのコミュニケーション増幅技術の補強でしかありません。インターネットの登場は、確実に過去の産業革命に匹敵する影響力を持ったコミュニケーション増幅技術であると認識されています。では、その本質とは?
まずはそれを「コンテンツをデジタル化することで可能となる『媒体からの解放』」と仮定しておきましょう。かつては、文字なら紙に、絵や写真ならキャンバスや印画紙に、音楽ならレコードに、映像ならフィルムに……といったふうに、コンテンツの種類ごとに媒体を用意する必要がありました。一方、コンテンツをデジタル化すると、文字でも、絵でも、写真でも、音楽でも、映像でも、全てデジタルデータというかたちで扱えます。つまり、媒体という物理的制約からの解放を実現する「デジタル化」という発明が、直近の産業革命の本質ということになります。
他方、第一次・第二次産業革命の鍵となった――印刷技術は1つひとつ複製する工数からの解放を、蒸気機関はモノを遠くまで速く運ぶ労力からの解放を、それぞれ成し遂げたと言えます。つまり、産業革命の鍵となった技術は、各時代に課せられた「物理的制約」を取り払らう技術だったのです。
ちなみに、媒体から解放されると、どんないいことがあるのかというと、記録媒体を統一できる(メモリやディスクに何でも入れられる)、処理方式が統一できる(コンピュータで処理できる)、伝送システムを統一できる(ネットワークでどこへでも運べる)といった具合に、コミュニケーション増幅技術から見ると良いことだらけなのです。
では、改めて「本質」を定義してみましょう。情報通信技術としてのデジタル化・ネットワーク化は、デジタル化により「媒体制限を取り払う」コミュニケーション増幅技術であり、デジタル化による「複製」とネットワーク化による「速度向上」は、コミュニケーション増幅技術の大幅な改善を同時に成し得たのです。さらなる技術の進展に対する考察は、のちほど再び行ないます。
なぜ、最初に「インターネットの本質」について語ったのかというと、我々の時代のコミュニケーションが、物理的制約が取り除かれた結果、登場したことと、その先に広がる新たなコミュニケーションの可能性について考えてみたかったからです。
ここでコミュニケーションについて、それぞれどのような位置づけになっているか整理しておきます。まず「コンテンツの形式」としてわけると、文字、絵、音声、動画といったわけ方が可能です。次に「送り手と受け手の数」でわけると、1対1や1対多というわけ方ができます。もう1つ、「時間的な要素」だと、同時にやり取りできる同期型、時間差がある非同期型というわけ方があります。ほかにも、方向性(一方向/双方向)、広さ(声が届いたり見えたりする範囲/もっと広い)、コスト(高い/安い)など、いろいろあると思いますが、まずは最初の3要素に沿って整理してみます。わけ方が3つあるので、それぞれを軸に見立てると、3次元の空間に投写できます。ここではそれを「コミュニケーション空間」(下図)とします。
いくつかの代表的なコミュニケーション(アプリケーションとも捉えられます)が、この空間においてどのような位置を占めるのかを確認したいと思います。位置を示すには座標で表すのが便利なので、(コンテンツ形式、送り手と受け手の数、同期/非同期)という座標軸に沿って見ていきましょう。
例えば「手紙」は、紙に文字や絵を書いて特定の相手に送るので、(文字と絵、1対1、非同期)となります。「電話」は、音声で相手と会話するので、(音声、1対1、同期)となります。以下、同様に、「ラジオ」は(音声、1対多、同期)、テレビは(映像、1対多、同期)、新聞は(文字と絵、1対多、非同期)となります。また、情報発信系メディアもコミュニケーションを担っていて、「出版」は(文字と絵、1対多、非同期)、「音楽(レコードやCD)」は(音楽、1対多、非同期)、「映画」は(映像、1対多、同期)という感じになります。これら以外に「多対1」というコミュニケーションもあり、「選挙」(文字、多対1、非同期)などがこれに該当します。
改めて見ると、実はコミュニケーション空間には意外とあちこちに穴が空いていることがわかります。例えば、(文字と絵、1対1、同期)あたりはぽっかり空いていますし、(多対多)はごっそり空いています。これはなぜかというと、コミュニケーションは必ず媒体によって成立するので、媒体そのものの発明が不可欠だからです。媒体が紙であれば、電話のように瞬間的に相手に情報を届けるのは物理的にむずかしく、誰もが誰に向けても妥当な費用で情報を届けられる媒体は技術的に困難でした。また、物理的な距離が近ければ、特別な媒体を必要とせず、会議のように同時に全員でコミュニケートできますが、一定以上離れたら多対多のコミュニケーションは現実的に不可能でした。
では、第三次産業革命たる「デジタル・ネットワーク」によって媒体制限が取り払われると、どうなるでしょうか? コンテンツをデジタルデータとして扱うことで、それまでの物理的媒体に存在していた制約、つまり、複製にかかる資材・手間といったコストを大幅に削減できますし、届けるための時間・手間も非常に軽減できます。もちろんストレージやネットワークの容量は無制限ではありませんが、それでも以前の物理的媒体に比べれば、そのコストは劇的に小さくなります。よって、手紙や電話といったコミュニケーションは、より簡便なかたちでデジタル・ネットワーク上に代替サービスが実装可能ですし、以前なら物理的制限から不可能だったコミュニケーションも可能になるのです。その一例として、「多対多」のコミュニケーションの登場が挙げられます。「2ちゃんねる」のような掲示板や「ツイッター」のようなSNSは(文字・絵、多対多、同期)ですし、(ライブではない)YouTubeは(映像、多対多、非同期)となります。
これを見ると、コミュニケーション空間において空白だったところに、新しいコミュニケーションが登場していることがわかります。まだぽっかり空いているところもありますので、近い将来、その空白を埋めるまったく新しいコミュニケーション、もしくはそれを実現するアプリケーションが登場するでしょう。
現在、起きていることをよく観察すると、実は、これら以外にもコミュニケーションには2つの広がりがあることに気づきます。それらについても軽く紹介しておきます。
1つは、モノのネットワークへの接続、コミュニケーションの送受信者の拡大です。今までコミュニケーションは、おもに「人と人」とのあいだに生じるものとして考えられていましたが、現在では人以外のさまざまなモノがネットワークにつながっています。モノというとカメラなどをまっ先に思い浮かべるかもしれませんが、AIなどもモノとして考えられ、人からAIは学習、AIから人は処理結果と言えるかもしれません。また、ブロックチェーンなどは、ある意味、モノ同士がコミュニケートして信頼性の鎖を維持しています。このようにコンテンツがデジタルデータになることで情報処理が可能になり、さまざまなモノがネットワークにつながるようになりました。
もう1つは、コンテンツの拡大です。デジタル通貨や暗号資産に代表されるように、今では「お金」がコンテンツになりました。ブロックチェーンなどと組み合わされて、非常に多くのコンテンツがインターネット上で流通しています。さらに、人とのインタフェースが進化して、最近注目を集めている仮想空間(メタバース)や、新たなコンテンツの種類、味覚・嗅覚など今はまだ実現できていない五感のデータがデジタル化されて人とやり取りできるようになれば、より多様なコミュニケーションが生まれるでしょう。最近では、脳を直接インターネットに接続できる「ブレインテック」という技術も研究されているので、言語や五感に限定されないコミュニケーションがいずれ可能になるかもしれません。
このような議論になると、必ず技術の進化に対するネガティブな、いわば恐怖のような感情が湧いてきます。それは未知のものに対する自然な反応であり、感覚的に納得してもらうのはむずかしいかもしれません。
とはいえ、我々はこれまでいくつも技術の変化を経験し、その恩恵を享受してきました。例えば、電話やテレビは発明以前の人たちからすれば、到底信じられないものだったでしょう。SF作家のアーサー・C・クラークは、クラークの三法則のなかで「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」と述べています。
では、コミュニケーションが高度化した社会は人にとって幸せなのでしょうか? 当然、今のままがいい、今のままで十分じゃないか、といった意見もあると思います。簡単に答えを出すことはできませんが、我々は技術の進化とともに社会の変化を経験してきており、過去から学ぶことができます。これこそ、コミュニケーションによる社会的知識の蓄積なのです。
明らかに言えることが2つあります。1つは、我々はすでに過去の技術的進化・成果を反映した社会に生きており、その恩恵なしに生活するのは困難になっているということです。乱暴に言えば、言語の発明はいわば第零次産業革命とも言えるコミュニケーション改革であったわけで、言語という高度に抽象化された記号の存在なしに合理的なコミュニケーションを構築することは不可能です。あるいはもっと身近な例として、電気というエネルギーを四六時中、利用している我々は、もはや電気なしでは生活できません。
新たに発見された技術が重要な社会インフラとなることは必然であり、インターネットも今ではインフラとして認知され、物心ついた時にはネットワークにつながった社会しか経験していない世代が成人になっています。つまり、我々は技術の進化を時間をかけて社会に取り込み、その恩恵にあずかりながら生きているのです。
2つ目として、技術の進化は所詮、手段の改善であり、目的は人が決めることができるという点です。例えば、原子力は最初、兵器として利用されましたが、その技術はのちに重要なエネルギー源として活用され、社会の役に立っています。また、自動車も交通事故を引き起こしたり、その機動力から犯罪に使われることもありますが、今や我々の足として生活のなかに根づき、自動車をなくせ、といった議論が乱暴であることは明らかでしょう。
余談ですが、インターネット上で問題が起こるたびに「不適切な行為を防ぐ仕組みをネットワーク側で用意すべきだ」という議論が出てきますが、いかがなものでしょうか? これを「道路交通」に喩えるなら、インフラである道路に強盗などの犯罪行為を防ぐ仕組みを導入せよ、というのと同じです。道路側でなすべきことは、路面の整備やガードレールの設置など安全・信頼を維持するための機能の確保や定期的な保全作業であって、自動車の利用目的を制限するような仕組みを道路に入れるのは、本来の役割から外れていると思うのです。つまり、インフラはインフラに求められる安全・信頼をしっかり担保し、利用目的を制限する仕組みは、利用側で整備・確保していくのが望ましいでしょう。
話を戻すと、これまでさまざまな技術が発明され、それが社会に浸透し、生活が便利になった反面、時に不適切な利用のされ方により被害が生じたりもしました。だからといって、「技術の使用を止めるべし」ということにはならず、その技術をいかに適切に使っていくべきか、どのようにして不適切な行為を防ぐのか、仮に不適切な行為がなされた際はどう対処すべきか……といったことについて知恵を出し合い、多くの知識が蓄積され、やがて適切なかたちで安全で安心なインフラとして定着してきた、という歴史があります。人はコミュニケーションを通して、知恵と知識を醸成・共有できるのです。
この見解に対しては、「楽天的すぎる」とのご批判もあるとは思います。筆者も「あらゆる技術が人と社会を平等に、幸せにできる」などと言うつもりはありません。ですが、今後も社会生活を営むなかでさまざまな問題が起きると同時に、それを解決できる技術が開発される可能性がある以上、技術の進歩を止めてしまえば、現状を維持することすら危うくなりかねません。新しく発明された技術は、知恵と知識で使いこなしていくことが大切であり、そのためにコミュニケーションという手段が我々に与えられているのです。
クラークの三法則
最後に、コミュニケーションにおける文化的な背景について補足しておきます。
コミュニケーションはほぼ言語に依っているわけですが、それは言語が高度に抽象化されたシンボルであり、全ての情報を共有しなくても、シンボルが示すものを理解すれば、コミュニケーションが成立するからです。例えば、ある果物を「リンゴ」とひと言、発するだけで、色・形・味など、意思疎通に必要な最低限の認識は共有できます。
地球上には膨大な数の言語が存在していますが、その全てが同じようなシンボルの種類やバリエーションを持っているかというと、どうやらそうではないようです。皆さんのなかにも、日本語を英語に訳そうとした時、日本語の言い回しが英語に見出せない、といった経験をされた方がいらっしゃるでしょう。また、昔から日本で食されていた果物には日本語の名前が存在しますが、外国から雑多な果物が日本に入ってくるようになると、カタカナを当てて、海外の呼び名をそのまま使うようになりました。リンゴは林檎、レモンは檸檬と漢字で書くことができますが、バナナやグレープフルーツはカタカナ表記で済ませています。これは、その社会・文化のなかで重用されていない物事にわざわざシンボルを割り当てたりはしない、言い換えると、シンボル化されたものはその社会や文化において必然・必要性を持っている、ということです。
言語の発達過程では、物事の重要さに対する認識によって、単語(名前)を割り当てるかどうかが判断されます。そしてその基準は、国や文化によって異なります。「虹」を例に考えると、世界中で虹は観測されますが、日本では虹は7色なのに対し、他の国では6色や8色、なかには2色というところもあるそうです。このように、物事に対する「解像度」は、各言語によってさまざまです。これは、細かいから優勢、荒いから劣勢ということではなく、単にその文化で区分けの仕方が異なるだけです。虹の色は連続的に変化しているのであって、その受け止め方が文化によって違うというのは非常に興味深いですね。
もう1つ大切なのは、どの言語もこの世の全ての事象、森羅万象を言語化しているわけではないという点です。普段、互いに日本語で話していても誤解が生じて論争に発展してしまうことがしばしば起こりますが、異なる言語間での会話では、その背景にある文化の違いもあり、正確な認識に辿り着くのは容易ではありません。そこでコミュニケーションが有効となるわけです。
コミュニケーションは一方向ではなく、双方向で成り立つ便利な道具です。相手の言葉を受け、より深い認識の共有に向けて情報を付加することもできますし(フィードバック的)、過去の経験から誤解が発生しそうな事象についてあらかじめ確認しておく(フィードフォワード的)こともできます。コミュニケーションに備わったこの双方向性によって、人は知恵を集約し、知識を蓄積し、巨大な社会を維持できるようになり、その結果として社会をより良くしてきたのです。
最後に、大雑把にまとめると、インターネットの本質とは、媒体からの解放というコミュニケーションの制限を撤廃することで、コミュニケーション自体の拡大に貢献すること、となります。コミュニケーションは相手との相互作用を引き起こしますが、それで良い方向に社会が進むこともあれば、悪い方向に活用されることもあります。ただし、人は常に社会の一員として生きていくわけですから、より良くなるよう活用していきたいものです。
今後もコミュニケーションは高度化し、道具やスキルも変わっていくでしょう。それは人間が言語によって社会を構築し、知恵や知識を共有してきた、コミュニケーションに依存する生き物である以上、必然と言えます。これからもインターネットが安心・安全なインフラとしてコミュニケーション、ひいては社会に貢献できるよう、我々も努力を続けてまいります。
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