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IIJ.news Vol.180 February 2024
不都合なもの、危ないものが出ないようにしてしまうと、いいものまで出てこなくなるのは、なぜなのか?
今回は、時に相反するものに転じることさえある“言葉の意味”に対する筆者の気づきをもとに考えてみたい。
IIJ 非常勤顧問
浅羽 登志也
株式会社ティーガイア社外取締役、株式会社パロンゴ監査役、株式会社情報工場シニアエディター、クワドリリオン株式会社エバンジェリスト
平日は主に企業経営支援、研修講師、執筆活動など。土日は米と野菜作り。
日本語には「意味が変化」する面白い言葉があって、もともと悪い意味で使われていたのが、ある時点から急に良い意味に転じることがあります。例えば「やばい」という言葉です。『デジタル大辞泉』を調べてみると「危険や不都合な状況が予測されるさま。あぶない。」とありますが、「若者の間では「最高である」「すごくいい」の意にも使われる。」と補足説明されています。また『実用日本語表現辞典』でも「①危険または不都合な様子。状況・具合が良くないさま。②非常に興味を引くさま。大変面白いと感じる様子。」とあります。いずれにせよ2つの、なぜか正反対の意味に使われる言葉になっているのです。
少なくとも筆者が子どもの頃は1つ目の意味、つまり「やばい、宿題やってない!」とか「テストどうだった? いやー、やばいよ(できなかった)」などと悪い意味でしか使われませんでした。ところが近頃では、筆者のテストの出来が相当良かったように聞こえてしまうこともあるわけです! ほかに類似した変化を遂げた言葉に、「えぐい」とか「頭おかしい」などがあります。いずれも、もとは悪い意味だったのが、「もの凄い」とか「普通じゃ思いつかないくらい素晴らしい」といった意味に転じたのです。
われわれ年寄りは、往々にして「言葉が乱れている。けしからん!」などと言ってしまいがちですが、その前に、なぜこんなことが起こるのかを考えてみましょう。
古典を紐解くと、実はこのような変化は最近に始まったことではないようです。例えば、平安時代の「もののあはれ」です。そもそも「あはれ」は「哀れ」から発生した概念であり、「悲しみ、哀れみ」を表す言葉だったのが、次第に「あはれ」なるものに対し「しみじみとした趣き」を感じるようになりました。つまり、無常なコトや稀少なモノに「悲しみ」を感じていたのが、そうであるがゆえに「尊さ」を感じるようになり、そこから良い意味へと転じていったのではないでしょうか。
「あはれ」は鎌倉時代になると「あっぱれ」へと転じて「驚くほど立派、見事である」という意味になるのですが、これは部下の命を顧みない闘いぶりや稀有な働きに対して稀少感・無常感を感じた武将が、その尊さを褒め称えて「あっぱれ」と言う感情を表すようになった、と推察されます。漢字で書くと「天晴れ」ですから、本来の「哀れ」からの発展ぶりは、それこそ“やばい”ものがあります(笑)。
さらに「あはれ」は室町時代になると「わびさび(侘び寂び)」を含む概念へと発展していきます。Wikipediaでは「慎ましく、質素なものの中に、奥深さや豊かさなど『趣』を感じる心、日本の美意識」とあります。また「人の世の儚さ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想である」とされています。
つまり「やばい」に代表される意味の変遷の背後には、こうした「わびさび」に通じる定型があると仮説できないでしょうか。もともと「やばい」は「危ないモノ、ダメなコト」に対して使われていたのが、そのうちそこに従来の基準や標準から外れた、一定の価値基準にはハマらない、何かワクワクするような稀少性・凄さ・趣を感じるようになり、新たな価値を見出すに至ったというわけです。
ところで、昨今の若者は型にハマることを良しとする風潮の中で育っており、その風潮は一段と強まっているようにも感じます。最近は、何か不具合や事故があると、責任者がメディアに出てきて謝罪するのが当たり前になり、原因究明や再発防止策を求められ、場合によっては新しい法律まで作って、基準から外れることを防止するような社会、決められた基準から外れることが“悪”と見なされるような社会になりつつあります。
しかし、そうした外圧が強ければ強いほど、そこから大きく外れるものに、自分が持っていないカッコ良さや凄さ、美学までも見出すのはある意味、自然なことのように感じられます。若い人たちが“やばい”ことに憧れる感覚は、大人たちが作り上げた社会の古いしきたりに対する反抗、アンチテーゼと言えるのかもしれません。
去る1月中旬、九州の福岡市でJANOGというインターネットのオペレータの集まりがあり、久々に出かけて来ました。久々すぎて、会場で会う人会う人に、まるで「ツチノコ」でも見つけたかのような目で見られてしまいました(笑)。JANOGの運営チームは若者中心に組まれているうえに、世代交代がどんどん進む仕組みになっているので、「最近、どうなっているかな?」と興味津々で時々出向きたくなります。今回はなんと3000人もの来場者を集め、だんだん“ヤバい”場になってきたようです。
初日が終わった夜、久々に博多の天神で飲んだあと、中洲に渡る橋の袂から川に沿ってたくさんの屋台が並んでいる光景を見て驚きました。博多の屋台は戦後の闇市から始まった、まさに“ヤバい”場所でしたが、歩道を占拠した不法営業や汚水のたれ流し、一等地を安価な使用料で使っていることに対する周辺店舗の不公平感などから、20年ほど前だったでしょうか、「屋台営業の新規参入を原則認めない」という条例が制定されて屋台が減り始め、「そのうちなくなるのでは」と言われていました。ところが今では小綺麗で、しかも昔のようにラーメン屋ばかりでなく、明太子専門屋台や四川中華専門屋台など、アイデアを凝らしたオシャレな屋台が並び、入店を待つ客があちこちで列をなし、どの店も老若男女で賑わっています。これはどうしたことでしょうか?
この変化の要因としては、10年前に福岡市が「屋台基本条例」を制定し、屋台運営の営業時間や規格など細かなルールを明確化したうえで、区画をきちんと決めて、各区画に上下水道を整備するなど行政側がインフラを整え、開店希望者を公募するといった施策が功を奏したそうです。その結果、若者に人気の屋台が増え、2023年1月には米「ニューヨーク・タイムズ」で「今年行くべき場所」として紹介され、減少傾向にあった屋台の数も同年七月には増加傾向に転じ、多くの人で溢れる人気スポットに変わったのです。まさに“ヤバい”変化が起こったわけです。
進化論的に見ると、“ヤバい”ことというのは普通ではあり得ないことで、突然変異のようなものと捉えられるのでしょうが、多くの場合、そう言ったものは自然淘汰されていきます。しかし、そのなかで本当に新たな価値を発揮したものだけが生き残り、我々の社会を進化させる機動力になるのです。
だとすると、“ヤバい”ものがある一定数出てくるような仕組みを作っておくことが、良い意味での“ヤバい”ものを生み出すことにつながり、新たな社会が立ち上がっていく土壌になるとも考えられます。日本の閉塞感を打破するためには、このような若者中心の「ヤバい変化」を促進する「ヤバい場づくり」を、もっともっとやったほうがいいのではないでしょうか。
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