ページの先頭です


ページ内移動用のリンクです

  1. ホーム
  2. IIJについて
  3. 情報発信
  4. 広報誌(IIJ.news)
  5. IIJ.news Vol.181 April 2024
  6. 元 三井物産株式会社 代表取締役社長・取締役会長 学校法人 国際大学 理事長 槍田 松瑩氏

社長対談 人となり 元 三井物産株式会社 代表取締役社長・取締役会長 学校法人 国際大学 理事長 槍田 松瑩氏

IIJ.news Vol.181 April 2024

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。
第28回のゲストには、三井物産で社長・会長を務められ、現在も多くの分野でご活躍中の槍田松瑩氏をお招きしました。

元 三井物産株式会社

代表取締役社長・取締役会長
学校法人 国際大学 理事長

槍田 松瑩 氏

1943年、東京都出身。67年、東京大学工学部卒業。同年、三井物産入社。2002年、同社代表取締役社長。09年、同社取締役会長。15年、同社顧問。そのほかにも、一般社団法人日本経済団体連合会副会長、日本銀行参与、一般社団法人日本貿易会会長、日本機械輸出組合理事長などを歴任。現在、公益財団法人日本舞台芸術振興会理事長、学校法人国際大学理事長、株式会社朋栄取締役会長。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役 社長執行役員

勝 栄二郎

珍しい名前の由来

勝:
「槍田松瑩」(うつだ・しょうえい)というお名前は、非常に珍しいですね。
槍田:
上も下も珍しいので「実家はお寺ですか?」と、よく聞かれますが、お寺とはまったく関係なく、私の父は生命保険会社に勤めるサラリーマンでした。そして、父の母親が「まつの」という――松の木の「松」に「乃」の「乃」という名前でした。父は母のことを大変尊敬しており、子供の名前にも「松」の字をつけたいということで、私が「松瑩」、弟が「松慧」(しょうけい)と、2人とも名前に「松」の字が入っています。おかげで私も弟もずいぶん迷惑しました(笑)。昔、ワープロに「瑩」などという字はなかったので、ウツダマツ(槍田松)までが活字で、エイ(瑩)の字だけ手書きの封筒をよくもらいました。

三井物産に入社し、憧れの海外へ

勝:
槍田さんはもともと理系ですよね? どういう理由で三井物産に入社されたのですか?
槍田:
大学4年生の時、仲のよかった親友と2人で八幡製鉄所に実習に行ったのですが、ヘルメットを被らされて、汗まみれ、鉄粉まみれになって、想像以上にキツかった。結局、音を上げて、親友は大学に残り、私には海外に行きたいという夢があったので「総合商社」を目指すことにしました。
それで、今でもよく覚えていますが、新橋にあった三井物産の本社に出かけて行って、受付で「入社したいんですけど、どうしたらいいですか?」と尋ねたら、すぐ人事部に案内されて面接してくださり、幸いにもその日の夕方に「いいですよ(採用です)」と連絡をいただいた。1つ問題だったのは、私の学年だけ八幡に行く人がゼロになったので、学校からは叱られました。でも、私も若かったので「職業選択の自由は憲法で保証されている」なんてことを言って、希望通り、三井物産に入社しました。
勝:
工学部出身の商社マンは珍しかったのでは?
槍田:
三井物産は化学・機械分野の学生をずっと採っていたので、珍しくはなかったですよ。私はおもに発電プラントや発電機器を取り扱う電気機械部で働きましたが、半分以上は技術屋でした。
勝:
念願の海外へは、いつ頃?
槍田:
当時、入社してから2年経つと留学試験を受けられる制度があり、それに挑戦しました。憧れの海外ですから必死に勉強して、運良く合格することができ、アメリカのニューハンプシャー州のダートマス大学に行かせてもらいました。
勝:
留学生活はいかがでしたか?
槍田:
ダートマスは素晴らしい大学でした。学生はみんなお金持ちで、立派な車で通学していました。学内に温水プールがあり、スキー場、ゴルフ場も完備! 休みになるとレンタカーを借りて、西海岸からテキサス、マイアミまで旅行しました。行く先々に三井物産の支店があるので、ちょっと顔を出すと、食事に連れて行ってもらったりして、本当にいい会社に入ったなあと感謝しきりでした。
勝:
アメリカでは勤務されたのですか?
槍田:
ニューヨークで少し働いて、再び東京の電気機械部に戻ったあと、ロンドンへ転勤になりました。
東京で仕事を始めた頃、組合の中央執行委員になって、初代の海外部長として海外勤務の処遇改善に取り組みました。私自身、また海外に行くつもりでしたから、2年間、会社や経営陣とガンガン交渉しました。それで中央執行委員長になってやろうかなどと考えていたら、上司から「ロンドンに転勤だ」と命じられたのです。
電気機械部のメインの仕事相手はGE(ゼネラル・エレクトリック)でしたから、優秀な社員はニューヨークかサンフランシスコ、もしくはデュッセルドルフに送られていましたが、私は組合活動をやっていたからそうした勤務地には縁がなく(笑)、6年近くロンドンにいました。
勝:
そんなに長くいらしたのですね。
槍田:
ロンドンでは当初「(仕事が)何もないですね」と、現地の部長に言ったのを覚えています。しかし、何もしないわけにもいかないので、英国の機械メーカーを担ぎ出して、アフリカとか中東でプラントプロジェクトなどを仕掛けていきました。電気機械部の本業とはまったく別の業務でしたが、自分の判断で進めることができ、手ごたえもあったし、面白かった。
勝:
当時のアフリカは、治安が悪かったのでは?
槍田:
最悪です。例えばアンゴラに行った頃は、まだ内乱の時期で、銃を持ったキューバ兵が大勢いました。飛行場からホテルに向かう途中で「シガレット!」と、キューバ兵に何回も止められたりして。ホテルでもちゃんとした食事なんて出してくれないから、飯盒炊爨のセットをいつも持参していました。
勝:
何人かで行くのですか?
槍田:
英人スタッフを連れて行ったりしましたが、アンゴラはポルトガル語なので、まずリスボンへ飛んでポルトガル語のできるスタッフに同行してもらいました。物産はそうした連携は良かったです。
勝:
出張にはどのくらいの期間いらっしゃるのですか?
槍田:
アフリカに行くと“音信不通”みたいな状態になります。アンゴラあたりだと、最低2週間は行ったきりです。そこからさらに横に動いたりする時は、首都のルアンダからロンドンにいるワイフ宛に「これからケニアに行きます」と葉書を出すのです。するとロンドンに帰ってきてだいぶ経ってから、その葉書が届くなんてことがありました(笑)。

二度、秘書を経験する

勝:
ロンドンから東京に帰ってこられたあとは?
槍田:
電気機械部に戻って、しばらくしてから水上(達三)相談役の秘書をやりました。水上さんは相談役でしたが、会社のなかでは一番偉い人と見られていて、社員から尊敬され、役員からは畏れられてもいました。私は人懐っこい性格だから、どこへでもついて行って、いろんな話を聞かせてもらいました。海外へも何度もご一緒しました。
勝:
水上相談役は、どんな経営者でしたか?
槍田:
秘書をやっていると、社内のさまざまな状況が見えてきます。当時は単体決算で、決算対策として子会社に土地を売却し、その収益を不採算部門に充てて、帳尻を合わせたりしていた。それで私が水上さんに「こんなことやってますよ。社長に何か言ってください」とお願いしたのです。そうしたら水上さんは「社長が判断してやることは、誰も止められないんだ」とおっしゃる。社長の絶対的な権限と責任とはそういうものであり、社長がやることには相談役であっても「ああしろ、こうしろ」なんて言うべきではないんだよ、と諭されました。なるほどと思うと同時に、会社で一番偉いと思われている人でも、社長に対してはそういうものなのか……と感じました。
勝:
なるほど。
槍田:
水上さんの秘書を3年間やって、また電気機械部に戻ったら、私の仲人をしてくれた電気機械部長がコンピュータの日本ユニバックの社長に転じた。すると、その日本ユニバックがバロースと合併することになり、(新社長から)「お前も来てくれ!」と言われて、(日本ユニバックとバロースが合併してできた)日本ユニシスに1年半ほど出向しました。
勝:
三井物産に戻られて、今度は熊谷社長の秘書になられました。
槍田:
ロンドンにいた熊谷(直彦)さんが帰ってきて社長になるというのですが、そこで再び「秘書を」と言われた。秘書を2回もやる人なんていないから、内心「本当かな?」と思って、帰国した熊谷さんに「また秘書ですか?」と確認すると、「そうだ」とおっしゃる。私は正直に「社長秘書なんてやったことがないので、何をどうすればいいのかまったくわかりませんが……」と言ったら、熊谷さんが「おれだって社長は初めてやるんだから一緒にやろう」と。
勝:
将来の経営者としての訓練が始まっていたのでしょうね。
槍田:
いえいえ、お手伝いをしていただけですが、秘書としてそばに仕えると、なるほど、そういうこともあるんだなと、勉強になることがいくつもありました。
熊谷さんが役員とサシで話をする場に「お前も来てくれ」と呼ばれることがよくあったので、ある時「熊さん、どうしてですか?」と聞いてみたのです。すると「君がいると、相手が現場に戻って『社長はこう言っていた』という時、嘘をつけないからね」と。たしかに役員が社長と2人きりで話をして、社長の意向はこうだったと言われても、あとから確認できないですよね。
いろんなことを手広くやってる会社ですから、世界中から来た役職員が社長と話をします。もしその時の話がワンタッチで社長の意向として伝わると、本意でないことが広まりかねない。そんなことまで心配するのは、きっと苦い体験をされたんだろうなと思って、私もそういう場では意図的に目と耳を開いているようにしました。

強制捜査を受ける

勝:
ところで、いわゆる「総合商社」という業態は、海外にはないですよね?
槍田:
ありません。
勝:
海外で日本の商社はどういうふうに見られているのですか?
槍田:
今ではたぶん投資会社だと思われているのではないでしょうか。
勝:
商社もかつては輸出入の手数料で稼いでいましたが、ある時期から投資にシフトしていきましたね?
槍田:
時代が変わり、ミドルマンとしての仕事だけでは収益があがらなくなってきたのです。仕方ないから、この輸出あるいは輸入を我々に任せてくださいとか、仲介をやらせてくださいなどと、卑屈なお願いを繰り返していましたが、やがてそれでもどうにもならなくなり、他社と談合したり、挙げ句の果てには、私が社長になった背景とも言える――不名誉な事件を起こすまでになってしまったのです。
勝:
少し詳しく教えていただけますか?
槍田:
2000年、国後島のディーゼル発電プラントの入札に際して、三井物産から政治家の鈴木宗男氏に相当なお金が流れたのではないかという疑惑が持ち上がった。突然、30人くらいの検察官が会社に来てガサ入れが始まり、1日中ありとあらゆるものを調べて、トラック2台分の書類を持っていきました。
私は当時、経営企画担当専務でしたが、社長も会長も不在だったので、検察官に呼ばれて「槍田さん、今すぐ社内放送して、全社員を足止めしてください。1人でも書類を持ち出す人がいたら、証拠隠滅で逮捕します」と言われた。
物産は当時、23階に常務、専務、副社長の部屋が、その上の24階に社長と会長の部屋があったのですが、本当に洗いざらいみんな持っていくのです。秘書が慌てて「社長・会長は出張中なので、机の引き出しには鍵がかかっていて開かないです」と言うと、検察官は平然と「いいですよ、壊しますから」、そして「どうしても必要なものは夕方までにコピーをとってください。オリジナルは持っていきます」と言うのです。
勝:
凄いですね。
槍田:
そう言われた直後、「あっ、ありました!」と、秘書が鍵を持って来たので、ちょっとみっともなかった(笑)。
さらに後日、今度はパソコンのメールを調べるということで、会社のプリンタをフル稼働して1週間ほどかけて、約60万通(!)のメールを全部プリントアウトしていきました。
そうして徹底的にお調べになったのですが、どこをどう捜しても、宗男さんと物産とのあいだに金銭のやり取りがあったことは立証されませんでした。

社長就任、投資事業へシフト

槍田:
そもそもこのような事態に至ったのは、無理やりにでも利益をあげなければならないというプレッシャーのなか、現場がなんとか高収益事業にしようとした結果とも言えます。しかし、談合をしていたことは事実ですし、強制捜査の対象にもなったわけですから、会社のトップがけじめをつけないことには収まりがつかなくなり、最終的には会長と社長が2人揃って辞めることになりました。
勝:
その後、どのような経緯で槍田さんが社長になられたのですか?
槍田:
事件後しばらくして会長室に呼ばれたら、お2人(会長と社長)が揃っていて、「次はお前が社長をやるんだ」と言われた。一瞬「えっ!」と驚きました。私はその年の4月に専務になったばかりで、経営会議メンバーのなかでも最年少(58歳)でした。
今、振り返っても大変図々しかったと思うのですが、「取締役会で正式に承認していただけるのなら、お引き受けします」と言ったのです。というのは、私自身のなかに、会社の上層部がきちんとした仕事をしてこなかったからこんなことになった、加えて、自分が(社長を)やるべきなのだろうかという思いがあり、その率直な気持ちをお2人に伝えたのです。結局、2002年10月1日付で社長になりました。
勝:
いろんなやり取りがあったのですね。
槍田:
私が社長になってからも、こんな仕事を続けていたら、とてもじゃないが、高給な社員を養っていけないと痛感しました。それで、どうすべきか悩んだ結果、我々には内外のいろんな分野でのビジネス経験があり、さまざまな業界の動向や将来性を見通すことができる、ならばそれを活かして、ココだと決めた分野に“投資”すればいいのではないか、と考えたのです。そして私が社長になった翌年、これから三井物産が進む方向を明示する意味も込めて、ブラジルの鉄鉱石会社に1000億の投資を行なうと発表しました。物産は当時、200億くらいしか利益を出していない会社でしたから、金額的にも分野的にも驚くような内容でした。
この投資を決めた時は、文字通り“清水の舞台から飛び降りる”覚悟でした。私は鉄担当の副社長と役員に「鉄の利用は鉄器時代から始まっているよな。いつまで続くと思う?」、「鉄に代わる材料は出てくるのか?」と何度も問いただしました。すると彼らも「鉄は絶対になくなりません。鉄に代わる素材も当分出ません」と明言したので、「それなら投資だ!」と決断しました。つまり「そのもの自体が価値をいつまで保ち続けられるのか」という見通しをもとに投資先を決めたということです。
勝:
素晴らしい洞察ですね。その後、見事に収益もあがりました。
槍田:
投資の価値は3000億、4000億、5000億と、どんどんあがって、最終的には8000億くらいまでいったでしょう。あの時、本当に感心したのは、少し前まで「まいど!」と頭を下げて、お酒を飲んでゴルフをしていた物産の社員が、あっという間に投資事業に専心して、IRR*1やEBITDA*2といった必要なスキル・知識をどんどん身につけていった。さすが商社マンだなと頼もしかったです。
勝:
まさに“人の三井”ですね。
槍田:
そうした変革の契機になったのは不幸な出来事だったかもしれませんが、会社が方向転換できたという意味では大きかったと思います。

「初心」を忘れず

勝:
槍田さんは本当にお若いですが、何か秘訣があるのですか?
槍田:
自分勝手に、好きなことをしてきただけです(笑)。でも、それって実は、とても大事なことだと思うのです。仕事でもやりたいことをやるのがいちばん元気が出て、いい結果を残しますよね。なので、物産でも仕事上のミスマッチを減らすために、人材が必要な部署があれば社内公募を出して、意欲のある社員に手をあげさせるようなこともしました。かつてそんなことはやっていませんでしたが、新しい試みとしてね。
勝:
では、最後に若い人たちにメッセージをいただけますか。
槍田:
月並みですが、「初心」を大切にしてほしい。私自身、たくさんの仕事に携わってきましたが、着任した当初は「こういうふうに仕事をして、こうなりたい」と思い描いていても、しばらくするとぶうぶう不満ばかり言うようになる(笑)。だから、最初にこうしようと決めた「初心」は忘れないでほしいです。
もう一つ、何でも“書く”ことを心がけておくといいと思います。秘書をやった時、不勉強な私なりに「この時、こんなことがあった、こう思った」といったことを書き残していました。そんなノートが何冊かたまって、後年、社長になった時にずいぶん役に立ちました。書いておけば、忘れないし、思い出せますからね。
勝:
素晴らしいメッセージですね。今日は大変貴重なお話をうかがうことができました。ありがとうございました。

  1. *1Internal Rate of Returnの略称。内部収益率。
  2. *2Earnings Before Interest, Taxes, Depreciation, and Amortizationの略称。企業価値評価の指標で、利払い前・税引き前・減価償却前利益のこと。

ページの終わりです

ページの先頭へ戻る