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IIJ.news Vol.181 April 2024
東日本大震災で被った傷が癒えないまま、13年の月日が流れた。
今回は、宮城県石巻市の震災遺構・大川小学校を見学して感じた筆者の思いを綴る。
IIJ 非常勤顧問
浅羽 登志也
株式会社ティーガイア社外取締役、株式会社パロンゴ監査役、株式会社情報工場シニアエディター、クワドリリオン株式会社エバンジェリスト
平日は主に企業経営支援、研修講師、執筆活動など。土日は米と野菜作り。
今年の3月11日を少し過ぎた14日、JR東日本の「キュンパス」を利用して、筆者を含む軽井沢在住のおっちゃん・おばちゃん5人が連れ立って、宮城県石巻市にある震災遺構・大川小学校を見学すべく、日帰り旅行をしてきました。
この小学校は東日本大震災の時、大津波に襲われて、当時、全校で108名いた児童のうち74名と教員10名が亡くなるという惨事に巻き込まれました。しかし、地震発生から津波が到着するまでに50分も時間があり、防災無線を通じて津波が来ることは学校にも伝わっていたはずでした。さらに、裏山に登れば5分で全員が避難できたにもかかわらず、それをしなかった学校の対応に過失があったとして、児童の遺族が市と県を相手に裁判を起こし、2019年に勝訴が確定しています。この遺族たちの歩みを記録したドキュメンタリー映画『生きる 津波裁判を闘った人たち』は、2023年の毎日映画コンクールでドキュメンタリー映画賞を受賞しました。
実はこの映画の企画には、軽井沢に別荘を持つ友人が関わっており(彼は何度も現地に行っているので、今回のツアーには不参加でした)、軽井沢周辺で自主上映会を実施していたので、私も昨年、映画を見に行きました。津波の恐ろしさもさることながら(映画では控えめに描いたそうです)、なぜ安全なはずの学校で我が子が亡くならなければならなかったのか……真実を知りたいという遺族の痛切な思いに胸が締めつけられるようでした。そして、真実をきちんと究明し、責任の所在を明らかにしようとしない教育委員会の対応や、文部科学省主導で集められた第三者委員会の、通り一遍で当たり障りのない検証結果に憤りを感じ、自ら現場を歩いて証拠を集め、さまざまな仮説を検証しながら事実の解明に乗り出す遺族の姿には、大いに感銘し、共感を覚えました。そんな経緯から我々も現場を見ておこうということになり、今回の旅行となったわけです。
上記の映画にも登場するお子さんを亡くされたという遺族の1人が「語り部」として、我々を学校の遺構の横に建てられた大川震災伝承館で出迎えてくださいました。そして、伝承館に展示された写真や資料、ご自身が独自に集められた震災前後の写真などを用いながら、当時の学校の地理的状況や、震災と津波により起こったことを、詳らかに、わかりやすく、そして熱く語ってくださいました。この時、私も初めて知ったのですが、大川小は海岸線から3.7キロも内陸にあったにもかかわらず、6メートルもの津波がそこまで到達したそうです。そして、これはあまり知られていないと思うのですが、陸伝いにやってきた津波よりも、学校の近くを流れている北上川を遡上してきた津波による被害のほうが、はるかに大きかったというのです。
どういうことかというと、学校から3.7キロ下流の海岸沿いには、防風林として松林があったのですが、津波はその松をことごとく薙ぎ倒し、倒木とともに大量の土砂を巻き込みながら遡上してきたそうです。それは津波というより、もはや土石流のような状態になっていたとのこと。
大震災から1カ月以上経って撮られた航空写真を見ると、海岸線から小学校の近くまで陸地だったはずのところが一面水浸しになっています――つまり大津波は、それだけの土砂を巻き込みながら襲いかかってきたのです。しかも、それが陸と川の二手に分かれ、川のほうが障害物が少ない(そもそも水が流れやすい)ため、川を遡ってきた土石流のほうがより勢いを得て大きくなり、さらに悪いことに学校の少し上流に橋がかかっていて、下流からものすごい勢いで津波が運び上げてきた倒木や土砂が、橋のところで堰き止められて壁のようになり、土石流が跳ね返されて、海岸から陸伝いにやってきた津波と挟み撃ちするようなかたちで学校を両側から襲ったそうです。
「川津波」という言葉を今回、筆者は初めて聞きました。そして、陸を伝ってくるより大きな川津波が、4キロ近くも内陸にあった鉄筋コンクリート2階建ての小学校を一瞬のうちに廃墟のようにしてしまったのです。背筋が寒くなる思いでした。
お話を聞いたあと、伝承館の外に出て、廃墟と化した小学校の遺構を見に行きました。よく見ると、校舎の2階の天井が下からものすごい力で突き上げられた跡が残っていました。また、海側の校舎の壁は結構残っているのですが、陸側の壁がほぼなくなっていました。さらに、校舎の2階から体育館につながる渡り廊下が、陸側から海側に向かって倒されていました。海から陸を伝ってきた津波よりも、川を遡上して橋で跳ね返された川津波のほうが、はるかに恐ろしいものだったということがよくわかりました。
語り部の方は、自分たちのような素人でも現場を歩いて考えてわかったことがこんなにあるのに、なぜ地震や津波の専門家たちがもっとしっかり調査・分析して、今後に活かそうとしてくれないのか、と歯痒そうに話されていました。そして何より、なぜ教員が児童を裏山に避難させようとしなかったのか、なぜ津波が来るギリギリまで校庭で待機していたのか、そこがまだわかっていないのです、と大変悔しそうでした。こうした点をきちんと検証して対策を講じないと、また同じ悲劇が起こる、だから語り部は語り続けなければならない――そんな思いがひしひしと伝わってきました。
誰が悪いのかといったことを突き止めたいわけではなく、ともかく事実を明らかにしたいだけなのに、どうもそれを阻もうとする勢力があるようです。実際、裁判中には、語り部の方と、奇跡的に一命をとりとめて一緒に語り部をやっている息子さんにも殺害予告があったそうです。
ところで、もし東京湾に津波が来たら、川津波が隅田川を遡上してくるでしょう。橋もたくさんかかっているので、川の周辺では大川小で起こったようなことが起こるかもしれません。そう思うと、大川小の話は決して過去の出来事でも、どこか遠くで起こった出来事でもなく、もしかしたら明日、自分たちの身の上にも起こり得ることなのだと、3月半ばの石巻の晴れ渡った空の下でしみじみと感じました。
13年前のあの日も、きっと同じように穏やかな日だったに違いありません。そこに突如、大地震と大津波が襲ってきても生き延びられるよう備えておくには、まず、あの日、何が起こったのかを知識もしくは知恵としてきちんと身につけておくことが必要不可欠です。加えて、今年の元旦に起きた令和6年能登半島地震に、東日本大震災の教訓がどれだけ生かされたのか、改めて検証する必要があるのでは? と感じました。
今回の旅では、現地で震災を経験した語り部の生の声が、ものすごく心に響きました。同時に、真実を知り、体験を語り継ぐことの意味、自分の足で一次情報を集めてそれらにしっかり向き合うことが大事なんだ、と考えさせられました。そして、語り部の熱い語りを聴いたからには、自分もあの惨事を知る者として、そこで感じたこと、考えたことをしっかり語り継いでいかなければならない、と思いました。
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