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コラム|Column

日本と異なる文化・商習慣の下で働いたことがあれば、その違いに直面して、頭を悩ませたことは一度や二度ではないだろう。これらの「違い」は日本の本社にはなかなか理解されず、日本からの指示や要求と現場のはざまで、現地担当者は苦悩してしまう。

今回は、IIJ社内で海外勤務経験のある7人に集まってもらい、商習慣の違いや自身が直面した苦労、海外で活躍するために必要なスキルなどについて語ってもらった。

参加者プロフィール

  • 中田

    中田(仮名、男性):
    グローバル事業部門の営業担当。前職で中国に3年駐在。
  • 米倉

    米倉(仮名、女性):
    海外クラウドサービス全般の企画を担当。前職を退職後、米国へ留学、IIJの米国子会社に2年半勤務。
  • 星野

    星野(仮名、女性):
    グローバル事業部門の営業担当。前職を退職後、シンガポールで日系の通信会社に勤務。
  • 亜川

    亜川(仮名、男性):
    グローバル事業部門のマーケティングマネージャ。前職で米国・欧州・ASEANなど複数国に駐在。
  • 独楽田

    独楽田(仮名、男性):
    中国のクラウドサービスの企画・運営を担当。前職を退社後、ドイツで現地企業に勤務。
  • 英田

    英田(仮名、男性):
    大手製造・流通業向けの営業担当、社内の海外トレーニー制度を活用して、IIJの欧州子会社1年8ヶ月勤務。
  • 英森

    英森(仮名、男性):
    国内・海外案件のプロジェクトマネジメントを担当、社内の海外トレーニー制度を活用し、IIJの欧州子会社1年8ヶ月勤務。

第1回:海外勤務経験者が語る、現地での仕事内容とは? 

海外での勤務経験と当時のお仕事について教えてください

  • 中田

    中田

    前職で2007年から3年間、上海に駐在しました。上海万博が始まる前日に帰国させられた事をよく覚えています(笑)

    仕事は主に現地の日系のお客様のサポートで、赴任当初の肩書はエンジニアでした。現地では営業・エンジニアの区切りが日本ほどはっきりしていなかったので、赴任後半年くらいたった頃からは、お客様サポートから、営業・プロジェクトマネージャ・障害対応の窓口まで、ネットワークまわりの業務はほぼすべて経験しました。

  • 米倉

    米倉

    私は2008年夏から2年半、N.Yで営業として勤務しました。前職を退社したあとアメリカに留学して、もう少しアメリカに居たかったのでそのまま現地で就職しました。私も当初、肩書は営業でしたが、案件が取れた後のプロジェクトマネジメントや、大きな案件になると導入サポートも担当していました。

  • 星野

    星野

    私は2012年6月から2年間、シンガポールで勤務しました。日系通信会社で、シンガポール島内の日系企業向けの営業担当でした。私も皆さんと同じく、肩書は営業でしたが、簡単なプリセールスワークやプロジェクトマネジメント、障害受付など、幅広くやっていました。シンガポール以外にも、タイ・ベトナム・マレーシア・インド・韓国などの国も案件ベースで対応していました。

  • 亜川

    亜川

    私も星野さんと同じくシンガポールに駐在の経験があります。前職で、フランス・米国に半年ずつ、シンガポールに5年、タイに2年、合わせて9年弱、海外で勤務しました。

    シンガポールのアジア太平洋本部に所属し、セールスマーケティングが主な仕事でした。その中でも、重要顧客をワールドワイドで対応する“グローバルアカウントプログラム”のアジアパシフィックチームに所属していました。赴任する前は主任クラスでしたが、海外で初めて10数人の部下を持つラインマネージャになりました。

  • 独楽田

    独楽田

    私は現地採用で、ドイツのデュッセルドルフに2007年から3年間勤務しました。勤めていたのは元日系電機メーカーの方が現地で立ち上げた会社です。

    デュッセルドルフは特に日系企業が多くて、労働許可がおりやすいというのが、この土地を選んだ理由でした。現地採用はビザが命ですから。日本人の需要が多く、当時は求人も多数ありました。小さな会社でしたので、営業・仕入れ・調達、サポートまで何でもやっていました。

  • 英田

    英田

    私は社内の海外トレーニー制度を活用して、2013年4月から1年8ヶ月、営業としてIIJ欧州法人のロンドン事務所で働きました。現地では営業とエンジニアの仕事はきっちり分けられていたので、皆さんが言うような「何でもやる」という感じではなくて、むしろ日本よりも営業に専念できる環境でした。

  • 亜川

    亜川

    出張でロンドンに行ったとき、電話でゴルフ場の予約していたよね?(笑)

  • 英田

    英田

    そうですね(笑)。現地での営業活動以上に難易度が高いと感じたのは、会社名義で銀行口座を作るときでした。業界団体の仲間同士でチャリティゴルフをするときに、会社として何の後ろ盾もない中で、銀行にチャリティ口座を作らなければいけなくて、それが難しかったです。

    話がそれますが、IIJの欧州法人は95%が日系のお客様で、日本よりもお客様との距離が近くて、マネージャかダイレクタークラスの方からよく土日にもゴルフに誘っていただきました。日本でビジネスライクにお付き合いするのとは正反対で驚きました。

  • 英森

    英森

    私も英田さんと同じで、海外トレーニー制度を活用してロンドンに赴任しました。ロンドンオリンピックの翌年で、オリンピック村は寂しい雰囲気でしたが、交通は便利になっていました。その年はワールドカップの年で、開催地のブラジルとは地理的に離れてはいましたが、サッカー好きな国なので、国中がワールドカップに沸いていました。ワールドカップ特需もありましたね。

    赴任した時がちょうどクラウドサービス「IIJ GIO EUサービス」の立ち上げ時期だったこともあって、基盤の構築とその後のプリセールスもやりました。ある程度クラウドサービスの立ち上げが落ち着いてきたら、次は南米とアフリカの案件のプロジェクトマネージャを経験しました。アフリカは2カ国行って貴重な体験をしました。

  • 中田

    中田

    そんな短期間にアフリカに2か国も。どこに行きましたか?

  • 英森

    英森

    モザンビークとブルキナファソです。 実はこのプロジェクトマネジメントが大変で(笑)。アフリカだと、事前に発注していた機器が届いていることは当然なくて、お客さんと税関に乗り込んでいくこともしょっちゅうでした(笑)。

皆さん幅広いご経験をされているのですね。
それでは、現地採用だった方におうかがいします。採用面接は現地で行ったのでしょうか?

  • 独楽田

    独楽田

    私の場合、日本で採用が決まりましたが、下見を兼ねて現地に行って、最終的には現地でも面接しました。やっぱり採用側も実際に会ってみないと不安だったんだと思います。

  • 星野

    星野

    私は前職をやめてシンガポールに住み始めてから、現地で仕事を探しました。

  • 米倉

    米倉

    私も現地です。仕事を探しているときは、N.Yに住んでいなかったので、友人の家に泊まって面接を受けていました。就職が決まってから、あわててN.Yに引越ししました。

皆さんにおうかがいしますが、言語で苦労したことはありましたか?

  • 独楽田

    独楽田

    ドイツ語は現地に住み始めてから勉強をはじめて、生活に困らない程度のドイツ語はしゃべれるようになりました。現地駐在員事務所が主なお客様だったので、仕事の面では日本語と少し英語ができれば十分でした。ただ、ドイツ人の社員は都合が悪くなるとドイツ語しかしゃべってくれなくなるので(笑)、その点で多少苦労したことはありました。

  • people_img_01

    中田

    私の働いていた中国の事務所は40名のスタッフがいて、そのうち日本人は私一人だけでした。中国語がうまくなりたくて、片言の中国語でスタッフに話しかけても、面倒なのか結局英語でしか返事をしてくれませんでした(笑)

  • 星野

    星野

    大学時代にシンガポールの元首相の政策を研究していたので、いつか働いてみたいという興味があって、英語がしゃべれないまま、現地に飛び込みました。働いていた会社は200名規模で、日本人はそのうち30名のみ。毎日、13カ国のイングリッシュスピーカーと格闘していました(笑)

  • people_img_07

    英森

    現地でのコミュニケーションはほとんど英語でしたが、技術用語はもともと英語なので、エンジニア同士ではあれば何とかコミュニケーションがとれました。

皆さん、どの国でも英語でコミュニケーションを取っていたのですね。赴任中に何か象徴的な出来事はありましたか?

  • 中田

    中田

    赴任中に北京五輪があって、その時に大問題がおきました。 北京のデータセンター内で障害があったのですが、北京五輪中は「フリーズ」と呼ばれる閉鎖期間で、使っていたデータセンターがその「フリーズ」対象だったので、データセンターに立ち入れず、結局、サーバの交換に1ヶ月待たされました。恐らくそこに五輪を支えるITインフラの一部があったんでしょうね。機器を預けているお客様であっても立ち入れませんでした。

  • 亜川

    亜川

    仕事とは関係ありませんが、シンガポール赴任中の1997年に、マレーシアのジョホールバルで日本が初めてワールドカップの本戦出場決めた重要な試合がありました。シンガポール中の日本人が400台くらいのバスに乗ってマレーシアに詰めかけて、ボロボロの崩れそうなスタジアムが、青いシャツで埋め尽くされました、その光景は今も忘れられません。

  • 米倉

    米倉

    N.Yは金融系のお客様が多いので、リーマンショックの時はお客様の羽振りが目に見えて悪くなってことを覚えています。

  • 独楽田

    独楽田

    ドイツでもリーマンショックの影響はかなりありました。デュッセルドルフには商社・製造系の企業が多いのですが、リーマンショックを機にかなりの数の駐在員の方が帰国されました。

  • 亜川

    亜川

    私は赴任期間が長いので、色々な事件に遭遇しています。

    1997年のアジア通貨危機の時に色々な会社が軒並み社員を減らしていて、私がいたタイ事務所でも現地社員の三分の二が突然出社しなくなってしまいました。自分の財産を守るのに必死だったのだと思います。ところが1ヵ月後、ビルの前でサンドイッチを売っている人をよくみたら、現地の元社員。「これの方が儲かる」といっていて、何が起きてもどこで儲かるかを考えている姿に驚きました(笑)

    1999年の台湾大地震時の時は、後輩が日本から大事なお客様を連れて台湾にきていて、夜中まで一緒にホテルで飲んでいたときに、地震が起きました。かなり揺れて、台湾国内の電話がまったく通じない状態になりましたが、当時、衛星携帯電話持っていたので、シンガポールにすぐ電話して、とりあえずお客様の帰国手配をしました。後日、この事でお客様の会社の社長から表彰されました。

    あと、これは今思い出しても恐ろしいんですが、ジャカルタからシンガポールに行く時に、乗るはずだった飛行機が落ちたことがありました。たまたま渋滞で予定していたはずの飛行機に乗れず、一本遅い飛行機で帰ったら、空港が騒然とした雰囲気で、前の便がまだ着いていない。結局、500人くらいが亡くなった飛行機事故でした。今思い出しても震えが止まりません。

(第二回「こんなに違う!日本と赴任先の違い」に続く)