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株式会社インターネットイニシアティブ 代表取締役会長 鈴木幸一
夏が終わって、9月の半ばから海外出張が続き、すっかり時間の感覚を失ってしまったようで、つい先日、今年最後の海外出張であった台北から戻ると、すぐに師走になってしまった。東京が寒いのか暖かいのか、その判断すらできなくなっている。
そもそも、寒くなってから熱帯にあるアジアへの出張が続くと、衣替えの機を逸することになる。一年中、夏服が必要で、洗濯屋に出そうか迷っているうちに、今度は春が来て、洗濯屋のお世話にならないまま一年が過ぎたりしてしまう。クリーニングに出す回数が少ないほど、背広の生地は傷まないとはいえ、ブラシを丁寧にかけても、どこかに汚れが集積しているわけで、折節、洗濯屋のお世話になったほうがいいとは思っているのだが、生来の無精者でワイシャツ以外の衣服については、家かオフィスにぶら下がったままである。
師走になるとすぐ、3日がIIJの創業記念日なのだが、ほとんどの社員はそれを知らない。あえて創業記念日なるものを、社員に告知していないので、知らないのも当然である。設立して10年くらいは、3日の夕方になると、私の周りに創業時の仲間が集まって、昔話をしながら酒を飲んだりしたのだが、それもなくなってしまった。日常に追われているのはいつものことで、それが理由で集まらなくなったわけではない。なんとなく時間の経過とともに、記憶が風化したというほかない。
私自身は、暗く、冷たい雨が降り続く師走の夕方、解体予定だったビルの殺風景なオフィスに、ピザと缶ビールで関係者が集まった始まりの日を忘れたことがないのだが、その日にちなんで何かをしようという気にはならない。古い記憶はきれいさっぱり洗い流したほうがいい、ある時からそんな思いが強くなってしまったようだ。
クリーニングをしない背広と違って、組織はいつも余計な過去にとらわれず、汚れがしみこまないようにしたほうがいい。昔話は、どこかしら感傷という心地よいオブラートに包まれて、余分な塵が溜まりかねない。未来は過去の延長上にあるにせよ、過去を引きずっているような未来では、小さな将来の姿しか生まれてこないと思ったりする。
いい歳をして、思い出すのも恥ずかしいのだが、ふと、「幾(いく)時代かがありまして」と書いた詩人の言葉が浮かんだりする。過去との付き合い方は、人それぞれでいいのだが、インターネットという技術革新に長いこと付き合っていて、つくづく考え込むのは、この技術革新の深刻さについて、日本ほど軽い付き合いで済ませている国はないということである。
冷たい雨が降りしきっていたあの創業の日、資金の手当てもなく、事業の見通しも立たないことで、私が暗澹たる気分になっていたかというと、どうもそうではなく、ベトナム戦争当時の米国の軍事的な要求によって莫大な資金が投じられて技術的な基盤が確立したインターネットという「魔物」をこれから発展させることの怖さ――それを集まってくれた素晴らしい技術者たちが、誰も感じていなかったことに対する奇妙な違和感だったのだと思う。
もちろん、IIJやインターネットの発展にもっとも貢献したのが彼ら優秀な技術者であったことは間違いなく、私にしてもその違和感に拘ることなくやってきたのだが、師走になると、ふと、そんな余計なことが脳裏をよぎったりする。今年の秋から師走にかけて、機上にいる時間が長すぎたのかも知れない。
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