【前編】技術者対談 ゼロからのスタートだったあの頃 ――“何をやっても新しく、何をしても怒られた”
IIJのイノベーションと言えば、日本で最初に商用のインターネット接続サービスを提供したことが挙げられる。そこで、IIJ創業30周年記念企画の第2弾では、当時の現場を熟知する2人の技術者、浅羽登志也さん、三膳孝通さんに、黎明期のIIJについてうかがった。
※ 広報誌 IIJ.news
Vol.173 December 2022より一部転載
プロフィール
IIJ 非常勤顧問 浅羽 登志也
1992年12月、IIJ入社。バックボーンネットワークの構築、経路制御、他プロバイダとの相互接続などを担当。98年よりクロスウェイブ
コミュニケーションズ執行役員を兼務、広域LANサービスの開発を指揮。2004年6月、IIJ取締役副社長。08年にIIJイノベーションインスティテュート(IIJ-II)を設立し、同代表取締役社長を兼務。09年、IIJ副社長を退任。15年8月、IIJ-II取締役。22年2月、IIJ-IIのIIJへの吸収合併を経て現職。現在、軽井沢在住。
IIJ 技術主幹 三膳 孝通
1993年4月、IIJ入社。インターネットサービスの立ち上げ、サービス設備の運用、サービス開発などを担当。2004年4月、IIJ取締役戦略企画部長。10年4月、同常務取締役技術戦略担当。12年6月よりJPNIC理事。15年6月より現職。総務省などの研究会に数多く参加。テレコムサービス協会の企画広報委員会長、業界団体の理事や委員なども務める。
※掲載当時の内容を掲載
「何ですか、インターネットって?」
―― お2人は"20世紀最後のイノベーション"と言われるインターネットを、日本でも企業や個人が使えるように汗を流したエンジニアの草分けですが、IIJが創業した当時の状況は、どんな感じでしたか?
三膳:そもそもインターネットが、通信手段としても、それを提供するビジネス業態としても、存在していませんでした。それまでの日本では、通信はちゃんとした企業が"A to Z"で品質を確実に保証して提供するものだった。一方、インターネット通信は"end to end"しか定義できないので、品質保証もできない。「何ですか、インターネットって?」と言われてしまう時代でした。
浅羽:何をやっても新しく、何をしても怒られた(笑)。
三膳:IPという通信プロトコルは、技術的にはメールでも音声でも、種類を問わずなんでも載せることができますが、その自由さが当時の日本では、「これって、まずいのでは?」と言われました。なぜなら、「データ通信はデータだけで、音声や動画を同じプラットフォームで流してはいけない」という国際的な取り決めがあったからです。
今でも覚えていますが、クリントン大統領(当時)の官邸WEBサイトに、Socksという飼い猫が紹介されていて、名前をつつくとニャーと鳴いたのですが、「猫の声は音声だから載せてはダメ」と、一部の人たちのあいだで騒ぎになったりしました(笑)。
浅羽:従来、国際通信は二国間協定を締結した国同士で行なわれていましたが、インターネットは「アメリカにつながれば、世界中につながります」という触れ込みだったから、それまでのルールのままだと、僕ら(IIJ)としてはすごく苦しいわけです。結局、二国間協定を全ての国と結ばなくてよくなり、それは幸せなことでした(笑)。国際通信のルールが昔のままだったら、今のようなインターネットは実現しなかったでしょうね。
三膳:アメリカのAT&T社は必要なライセンスを持っていたからサービス追加でよかったけど、IIJは何もないところからのスタートでした。
浅羽:僕は、「日本でインターネットプロバイダのビジネスを始めるための調整は問題なく進んでいる」と言われて、IIJに来た。でも実際は、通信事業を始めるために必要なライセンスも、資金もIIJにはなかったのです!
膳:「もうサービスを始めるから、急いでIIJに来い」と言われたのが、たしか1992年の夏か秋。それで慌てて前の会社の仕事を片付けて、1993年3月に「来月からお願いします」と挨拶に行ったら、「カネがないから、まだ来るな!」って(笑)。
浅羽:(すでに入社していた)僕らは「やばい、三膳君が来ちゃうよ。お金もないのに……」と大騒ぎしていました(笑)。
在りし日のSocks(Wikipediaより)
当時のドキュメント
―― 鈴木会長の著書『日本インターネット書紀』には「無給を覚悟で」とありましたが……。
三膳:仕方ないよね。(お金が)ないならないで。僕は大学院時代から学術目的だったインターネットの運用に関わっていたのですが、「目的を限定しない、みんなが使えるネットワークをつくる」というプロジェクトを「楽しそうだなあ」と思っていた。つなぐ先を自力で見つけないと入れない、設備の空きがなければ入れない、そういうネットワークじゃないほうがいいなあ、と。「誰もがインターネットを使えるようにする」というのはとても輝いて見えました。IIJには「給料の心配はない」って言われたんだけど(笑)。
浅羽:さすがに「無給」は覚悟してなかったけど、とにかく面白かったんですよ。可能性を信じるとか、そんな大げさなことじゃなくて。
アメリカではインターネットが先に普及していて、「日本もインターネットをやればいいのに、当然やるよね?」と、ずっと思っていた。当時、OSI(Open Systems
Interconnection)や学術情報ネットワークなど、国の施策として整備される"インターネットふうの"ネットワーク構想はありましたが、僕らの活動はまったく草の根的でした。もちろん対抗意識はありましたよ。シンプルなプロトコルで誰とでも簡単につながることができて、こんなに便利なものがあるのに、なんで使わないの! と。
三膳:あの頃のIIJには何もなかったけど、不思議と悲壮感はなかったよね。
浅羽:やることはたくさんあったから。実験したり、勉強したり、それをセミナーで話してお金を稼いだり。
三膳:もちろん情シスなんてないから、自分のパソコンはパーツを集めてきて組み立てて、ネットワークケーブルや電源ケーブルも自作して、各々、段ボールや袖机のうえに乗っけて、仕事をしていた。
浅羽:でっかいCRT(ディスプレイ)の箱を机にして(笑)。
三膳:約款もみんなでつくったね。読み合わせして、TeXで書く作業を何度も繰り返して。ひな形なんてないし、僕らは法律も知らないから、「なんで約款がいるのかなあ?」ってところから始めた。
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続く「真っ只中にいると「イノベーション」に気づかない?」、「変わってない、なんてことはない!」については後編をご覧ください。
インターネット黎明期の最前線に立つ中での「変化」と、インターネットが当たり前になった現代の「変化」をそれぞれの目線で語ります。お楽しみに!
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