カツセマサヒコインターネットに
救われた人生なので
思いきり振り返ってみる
「インターネットの巨大な可能性を切り開く」
ネットインフラの提供や格安SIMの製造・販売をしている会社、インターネットイニシアティブ(以下、IIJ)の自社コピーである。
IIJは、ネットの可能性にいち早く気付き、インターネットの接続サービスを日本で初めて開始した企業だ。今年25周年を迎えた同社は、今日までインターネットと私たちをつなぎ止めてくれている。
今年31歳になり、「インターネットに記事を書く仕事」を主な生業としている私も、もちろんその恩恵を受ける人間のひとりだ。
20年前は「紙媒体以外で記事を書く仕事」なんて、想像がつかなかった。幼少期の私が描いた将来の夢は「学校の先生」や「ラジオのDJ」だったし、もしもこの世界にタイムマシンがあって過去の自分が私に会いに来たとしたら、今の職業を聞いて首を傾げ「その仕事、楽しいの?」と不可解な顔をするだろう。
私たちを取り巻く世界は、未来は、そして私の人生は、インターネットの誕生と発展によって大きく変わった。
今回は"インターネットと私"というテーマで、ネットと関わった日々について振り返りたい。
1999年 音声ダイヤルを聞かなくなった日
確か中学に上がりたてのころだ。我が家に、信じられないくらい重たい富士通のノートPCが届いた。ディスクドライブに音楽CDを入れると、ビジュアルイコライザがウネウネと動いて表示され、それだけですこぶる感動したのを覚えている。
「電話代がかかるから、長時間つながないこと」
母親からあっさりした忠告だけ受けると、Windows 98が内蔵されたそのマシンでインターネットを始める。
今では信じられないが、ネットにつながる前は、好きなミュージシャンの情報を仕入れるために、わざわざファンクラブ専用のインフォメーションダイヤルに電話していた。自動音声で流れてくるラジオやテレビの出演情報、CDのリリース情報を、手書きでメモする。それが当たり前の習慣だったのだ。
しかし、和室に置かれた重たいノートPCによって、私の世界は一変する。
雑誌に書いてあった「http://www~」という長ったらしいアルファベットと記号を一文字一文字入力すると、PC画面は、これまで受話器越しでしか知り得なかった情報を、鮮明な文字でゆっくりと表示した。
「もう、自動音声を聞いてメモする必要がないのか!」
私にとって"インターネットが生活を変えた初めての瞬間"は、音声ダイヤルを使わなくなったこの日を指している。
GoogleやYahoo!の台頭により検索エンジンが充実してくるころには、興味は性に向いていた。
真夜中の1時過ぎ、卑猥なワードを入力しては、画像が出てくるのを10分~15分かけて待つ。ようやく出力されたA4用紙は、宝物のように丁寧に扱い、何重にも折り畳んでは引き出しの奥にしまった。
落雷によって卑猥な画面のままフリーズしたときはこの世の終わりかと思ったし、消しても消しても現れる謎のポップアップには何度も泣かされた。
当時の私が扱うインターネットはそんな下らないものばかりで、「何かを作る」とか「それで稼ぐ」といった考えは、まったく浮かばなかった。
"たくさんの情報がつまった箱"。それが、私の知る最初のパソコンとインターネットだった。
2001年「H"」と上限250文字のメール世界
中学に入ると、電車通学の関係で、「H"」(エッジ)というPHSを持たされた。ストレートタイプ(※)で、着信メロディは2和音。ディスプレイのバックライトをオレンジとグリーンの2色どちらかに切り替えられることだけが特徴の機種だった。
- 当時の携帯電話やPHSは、「パカパカ」と呼ばれる本体を折り畳むタイプか、折り畳めないぶん画面は小さいが、スリムなストレートタイプの2種類が主流だった。
当時のPHSは、音楽をダウンロードする処理能力など当然のようになくて、洒落たBGMを着信メロディにしたかったら、コンビニで「着メロ特集」と書かれた雑誌を買い、そこに書いてあるとおりに音符を打ち込むしかなかった。私は流行りのゲーム音楽やJ-POPを2和音でなんとか完成させると、友人や兄弟に聞かせては達成感に浸った。
中学の部活で合宿があると、同期全員で「スター・ビーチ」をはじめとするメル友募集サイト(現在でいうマッチングアプリのようなもの)に登録し、誰が一番多くの女の子とメールのやりとりをできるか競った。
当時、H"のメールは無料で送られる文字数が1通あたり半角20文字までで、他キャリアとやりとりするには有料メールを使う必要があった。ドコモは250文字以上受信することができなかったし、今考えれば不便なことばかりだ。
あのときの私たちは、告白するにも、怒りを伝えるにも、できるだけ短い言葉を探していた気がする。
初めてのカメラ付携帯はJ-PHONEから出たSH04で、これを持っていた友人はそれだけでクラスの中心にいられた。当然の話だが、それまでのメル友掲示板は全て顔写真の表示など不可能だったわけだから、これはひとつの革命だった。ただ、ニキビだらけの顔だった当時の私には、カメラ付携帯の登場はコンプレックスを露呈させる出来事でもあった。
"便利になるほど、生きづらくなることもある"
今思い返してみると、それを始めて実感したのは、カメラ付携帯が登場したときだったかもしれない。
そんな時代でも、パソコンの回線は進化する。「通信費が月額固定になったから、好きなだけ触っていいよ」と母から言われると、真夜中になればつながりにくくなるパソコンの画面にひたすらへばりついた。
初めてオフ会に参加したのもこの時期で、土曜の午後、学生服から校章だけ外して30代中心のコミュニティに飛び込み、趣味でつながった大人たちの集まりに混ぜてもらった。
まだ18歳の自分にとって、ネットがなければ出会うはずもない、職業も住む世界も違う大人たちとの出会いはとにかく刺激的だった。勢いで夏フェスにまでついて行ったこともあり、そこで「大人とは、短い時間で爆発的に遊ぶ生き物なのだ」と学んだ。
高校や大学では教えてもらえないことを、本名も知らない大人たちから教わって過ごした青春時代は、今の自分にも多少の影響を与えている。
2006年 mixi日記とMSNメッセンジャー
大学2年に上がったころ、周囲で「SNS」という得体の知れないワードが飛び交うようになった。
サークルの友人からmixiというサイトに招待されて、右も左もわからず登録する。コミュニティ? バトン? 紹介文? 足跡? 理解しないまま日記を書き始めると、コメントがいくつか付いて、それだけでかつてないほど友人たちとつながる感覚を覚えた。
J-POPの歌詞か曲名を記事タイトルにした、今考えれば黒歴史のような日記を書き続けるうち、できるだけ多くのコメントを求めるようになった。気付けば、ログイン5分以内をキープし続けるSNSオタクになっている。
同時期に活用されたMSNメッセンジャーと呼ばれるチャットサービスにも、のめり込む。
ログインしている人が表示され、話しかけるとチャットがスタートする。大学から帰宅してパソコンを付けると、さっき別れた友人たちと会話の続きをすることが日常となった。テキストコミュニケーションならではの "間" や言い回しが愉快で、内輪だけのルールをいくつも作っては、壊して遊んだ。
mixiとMSNメッセンジャーは完全に身内のコミュニケーションツールとして使われ、新たな出会いは何もなかった。高校時代に参加したオフ会と比べればとても閉鎖的ではあったが、それでも「ずっとつながっている」という疑似体験に、心が震えていた。「SNS依存症」と呼ばれることを、嫌味とわかっていながらも抜け出せずにいた。
2010年 Twitterが見せた「知らない世界」
社会人も2年目に差し掛かるころ。オフ会で出会った大人たちとはいつの間にか連絡を取らなくなり、mixi日記を毎日のように更新していた友人たちも徐々に姿を消しつつあった。「人は飽きるし、流行は廃れるものだ」と言い聞かせていたところ、私以外の友人たちは皆、Twitterというミニブログか、FacebookというSNSを始めていたことを知る。
「Twitterは、140文字しか書けないんだよ」
「何それ、楽しいの?」
「楽しい。いいから、やってみな?」
「俺は、ハマらないと思うけどなあ」
予想は見事に外れ、まんまとハマった。
最初にフォローした20人こそすべて身内だったが、その人たちがシェアする情報はどれも新鮮で、衝撃的で、自分の知る世界がいかに狭いかを思い知らせてくれた。
立て続けに200人くらいフォローしたところで、フォロワーにイラストを売って生計を立てている人に出会った。芋づる式に、現在の私の職業である「ライター」も、フリーランスという働き方も、全てTwitterから知ることになる。
「サラリーマンとして22万円の月収で暮らしている自分には、考えられない暮らしだ」
衝撃を受けた私は、見ているばかりでは退屈になり、自分でも発信力を持ちたいとブログを書き始めた。書いた記事をSNSでシェアすると、300人もいないフォロワーから稀に反応をもらい、それだけで心が少し満たされた。1年ほど書き続けたところで、偶然にも編集プロダクションの社長が記事を読み、ライターに転職するきっかけが生まれた。
"転職サイトも使わずに、SNSで声をかけられて転職をする"
まさに、インターネットに生かされた瞬間だった。
今では、最初にフォローした20人の友人たちからはとっくのとうにリムーブ(※)され、代わりに会ったこともない10万人のフォロワーが付いた。失わなきゃ手に入らない構図は何なんだと思いながら、今日も140文字を更新し、ダイレクトメッセージで届く新規の仕事の依頼に対応している。
紛れもなく、今の私の職業は、インターネットとTwitterによって成り立っている。
- リムーブ:フォローを外されること。
人それぞれのインターネットと、これからのこと
こうした変遷を経て、今の私は「インターネットに記事を書く仕事」を生業にしている。
「いや、俺はテキストサイトで育ったぞ」
「私はJ-PHONEで最初に出たカメラ付ケータイが一台目だった」
振り返ってもらえば、きっとそれぞれに"インターネットと私"があって、また、それぞれに今風に言う「エモい」ドラマがあるはずだ。その内容に正解も不正解もないのは、言うまでもない。
一方、これからのインターネットを見てみると、先の選挙でSNS戦略に力を入れた政党が話題になったこともあり、ネットが現実世界に及ぼす影響は日に日に大きくなってきていることがわかる。
それに対して、「無責任なことも気軽に言えるインターネットが好きだった」と嘆く人たちの気持ちもなんとなくわかる。しかし、恐らく時代の流れは止まらない。だったらその濁流の中で、少しでも自他ともにハッピーと思えるインターネットにしていく方法を考える方がいくらか前向きではないかと思う。
全員が発信するのだから、全員の幸福はありえない。
そうはわかっていても、どこかで譲り合い、認め合い、利他的になれないものだろうか。
インターネットと歩んだ人生を振り返ってみて、今度は自分がインターネットのためにできることはないかと、今日もSNSを見ながらぼんやり考えている。