強権政治の終焉、民主化の時代へ
『権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する』
ジョン・アクトンの有名な格言は、スハルトにも当てはまりました。
冷戦の時代が終わり、スハルトを支えた軍人仲間が退役していくと、スハルトの関心は大人になった自分の子供たちのビジネスに移り、それを守るために権力を行使するようになりました。プリブミ(華人ではない土着インドネシア人)優先も民間活用策も、究極は子供たちのビジネスのためでした。スハルトは、軍に代わる支持基盤をイスラム勢力に求め、民主化要求にもある程度の理解をみせつつ、権力の保持を目指しました。
しかし、1997〜1998年の通貨危機が国内経済に大打撃を与えました。スハルトはその収拾のためにIMFや世銀の厳しい改善策を受け入れざるを得ず、国民生活は悪化しました。民心はスハルトから離れ始め、支持基盤となるはずのイスラム勢力の多くもスハルト打倒へ動き、最後は子飼いだった政治家たちにも裏切られ、32年間権力の座にあったスハルトは退陣を余儀なくされました。
スハルト・イメージを払拭して、新しいインドネシアを作る。スハルトの下で副大統領だったハビビが大統領に就任し、「改革」を掲げて民主化の時代が始まりました。1945年憲法が改正され、言論・表現の自由、集会・結社の自由などが実現し、軍のプロフェッショナル化と警察の強化、司法の独立のほか、中央政府の権限を地方政府へ移す地方分権化も実施されました。さらに、華人への差別が撤廃され、中国正月が国民の祝日となりました。
加えて、大統領や地方首長の任期は最長で2期10年に制限され、大統領選挙も地方首長選挙も、それまでの議会による選出から国民の直接投票による選出へと大きく変わりました。大統領や地方首長の直接選挙はこれまでに3回行われ、民主国家としてのインドネシアに定着した感があります。ハビビの後、大統領はアブドゥルラフマン・ワヒド、メガワティと短期で交代し、政治的混乱もありましたが、2004年の大統領選挙に勝利したユドヨノが2期10年を務めるなかで安定し、現職のジョコウィ大統領につながってきたのです。
民主化を育てる時代へ
以上、述べてきたように、建国から53年後、スハルトが退陣した1998年がインドネシアの民主化元年であり、2004〜2014年のユドヨノの10年で民主化がインドネシアに定着したといえます。もちろん、様々な紆余曲折はありました。いわゆる「開発独裁」と呼ばれる強権国家でなければ経済開発は進まない、という見解もありましたが、発展段階の違いはあるにせよ、必ずしもそれが当てはまらないことをインドネシアは証明したとも言えます。
今、2014年に選出されたジョコウィ大統領は、政権内外からの様々な圧力で思うような政治ができない様子が見えます 。もっとも、民主主義には、時間がかかったり、プロセスを踏んだり、ルールを守ったりする面倒くささが伴います。それを批判する見解のなかに、スハルトのような「王」を待望する空気も見え隠れします。
一皮むけば「王」を待望する土壌が見えるインドネシアの民主化ですが、民主化の成熟への試行錯誤や紆余曲折はまだまだ続くことでしょう。共産主義への嫌悪以外にも、少数異端者への差別や少数意見の軽視など、まだまだ課題があります。頼りなさげに見えるジョコウィ大統領の苦悩もまた、インドネシアの民主化が成熟へと育っていくプロセスとして、見守っていくほかはないと思います。
- 第1回 インドネシアの「多様性のなかの統一」
- 第2回 インドネシアの「強権国家から民主国家へ」
- 第3回 インドネシアの工業化 − モノづくりは見果てぬ夢か
- 第4回 インドネシアのインターネット事情
- 第5回 日本=インドネシア関係 − 親日と親インドネシアとの共鳴へ向けて −
- 最終回 ASEAN経済共同体の発足と今後のインドネシア
松井 和久 氏
松井グローカル 代表
1962年生まれ。一橋大学 社会学部卒業、インドネシア大学大学院修士課程修了(経済学)。1985年~2008年までアジア経済研究所(現ジェトロ・アジア経済研究所)にてインドネシア地域研究を担当。その前後、JICA長期専門家(地域開発政策アドバイザー)やJETRO専門家(インドネシア商工会議所アドバイザー)としてインドネシアで勤務。2012年7月からJACビジネスセンターのシニアアドバイザー、2013年9月から同シニアアソシエイト。2013年4月からは、スラバヤを拠点に、中小企業庁の中小企業海外展開現地支援プラットフォームコーディネーター(インドネシア)も務めた。2015年4月以降は日本に拠点を移し、インドネシアとの間を行き来しながら活動中。