IIJ.news Vol.173 December 2022
クラウドサービス「IIJ GIO」は立ち上げ時から「当たり前のことを、当たり前に実現するだけ」と言い続けてきた。目下、日本のクラウド市場は海外勢に席巻されているが、IIJ GIOは多くのニーズに支えられ、日々進化している。
IIJが今もクラウド事業を継続している理由は何なのか?3人のキーマンに話を聞いた。
プロフィール
株式会社ディーカレットDCP
専務執行役員
時田 一広
1995年、IIJ入社。IIJテクノロジー、IIJフィナンシャルシステムズ、ネット専業証券会社のシステム、IIJ Raptorサービス、ネットワークのSIなど、複数の会社・事業を立ち上げる。2010年4月から金融システム事業部長兼クラウド事業統括として、IIJのクラウド事業を指揮。18年1月、株式会社ディーカレットを設立。
プロフィール
IIJ 常務執行役員
立久井 正和
2001年、IIJテクノロジー入社。システムインテグレーション部門を担当したのち、オンデマンド型システムアウトソーシングサービス「IBPS」に従事。12年よりプラットフォーム本部で、IIJ GIOの開発・運営を担当。近年では、エンジニアが一定期間、自分の興味ある領域に集中する「テックチャレンジ」の立ち上げに参画。
プロフィール
IIJ 執行役員 クラウド本部長
染谷 直
1998年、IIJ入社。IIJテクノロジーで多くのSI案件を担当。IIJとIIJテクノロジーの合併後は、xSPやSIerを顧客とする営業部門、ソリューション本部でマネージメントにあたる。2016年、クラウド本部に転属。システムクラウド領域における中期戦略を立案・実行。19年からシステムクラウド本部長。
「IIJ GIO」リリース当時の熱狂 時田 一広
―― 2000年代後半、なぜクラウドはあれほど注目されたのでしょうか?
時田:
「当たり前のことを実現した」からだと思います。今でこそクラウドネイティブな企業はありますが、当時、サーバは諸々の技術的制約から自社環境にインテグレーションするのが常識でした。アーキテクチャの種類が多すぎること、仮想化技術が進化していなかったこと、リソース専有化のニーズが強いという日本特有の事情など、理由はいろいろありました。だからサーバをサービスとして提供し、専有化のニーズにも応えられるIIJ GIOは、ビジネスとして成立するという確信がありました。サーバもサービスとして使ったほうが絶対に効率的なので、市場も盛り上がったんだと思います。
―― クラウド事業を始めるには、最初に多額の設備投資が必要です。そのあたり不安はありませんでしたか?
時田:
いずれは売れると信じていました。海外のクラウドベンダは、1回あたり1万台単位でサーバをまとめて買うのが当たり前です。日本でも一度に1千台単位で買わないと効率が悪くなります。
IIJ GIOを始めるにあたり、サーバを必要なタイミングで小刻みに買っていくか、まとめて買って売れるまで在庫にしておくか――いろいろ検討した結果、サーバ1台当たりのコストは、後者のほうが圧倒的に下がることがわかりました。まとめ買いであれば、サーバ1台はせいぜい10数万円で、損失を出しても最大2億円です。
この投資に対し、鈴木社長(当時)は「まあ、そうだろうな」と落ち着いたものでした。社内では「本当に売れるのか」と心配する声など、まあまあの騒ぎにはなりましたが(笑)、事業そのものに対し真っ向から反対する人はいませんでした。
―― 「まあまあの騒ぎになった」ということですが、当時、新規事業を始めるにあたり、苦労は感じていましたか?
時田:
それほどでもなかったです。他のSIerはクラウドへの理解が低く、「お客さんは結局、サーバを買いたがる」なんて言っていました。メーカや機器販売も同じでした。ですが、IIJはもともとサービスを売っている会社だから、サーバをサービスとして売ることに対し抵抗感は薄かった。実際、サービス開始後、サーバはすぐに売れました。
むしろ苦労したのは、そのあとです。業種によってクラウドの浸透スピードが異なり、営業体制を整えるのがひと苦労でした。ITスタートアップは浸透スピードが速い一方、金融や大手メーカは浸透スピードが遅い。前者はマーケットが小さく、受注・解約の出入りが激しい。後者は、マーケットは大きいが、入り込むのに時間がかかります。IIJとIIJテクノロジーが合併してクラウドビジネスを伸ばしていくにあたり、後者に対する長期的なアプローチ、特に基幹業務への浸透が非常に大変でした。
―― 目先のことにとらわれず、長期的な視点で高い目標に挑むというのはむずかしいですね。
時田:
例えば、「売上5000億円を達成するにはどうすればいいのか?」といったふうに考えると、下からコツコツ積み上げていく以外、方法は見つからない。そうではなく、「売上5000億円を達成したときのIIJグループ」、つまり「ゴール」を鮮明にイメージすることが先決なのです。さらに、一人ひとりが自分の頭で――
●売上5000億円を達成したIIJはどんな会社になっているか?
●その時、どんな事業領域・事業構造に変わっているか?
●どういうサービスラインナップになっているか?
●顧客の構成と割合はどうなっているか?
●これらの変化を成し遂げるには何をしたらいいか?
とブレイクダウンしていくのです。そして、明確になった「足りない領域」に対して行動すれば、自ずと道は拓けてくると思います。
「IIJ GIO」が辿ってきた道 立久井 正和
―― IIJ GIOの立ち上げ時の話を教えてください。
立久井:
IIJテクノロジーでは2000年頃からIBPSをリソース・オン・デマンドとして提供していました。実は、 IBPSの初代はWEBシステムに特化したリソースを提供していて、表記もiBPS(internet Business Processing Service)でした。私がIIJテクノロジーに入社したのは、より柔軟な対応により、エンタープライズ需要も取りにいくIBPS(Integration & Business Platform Service)にリニューアルした時でした。プラットフォームとインテグレーションの両方を提供できる一方、自動化も仮想化もされておらず、さまざまな対応を手組みで行なっていました。だから結果的に、柔軟性が高かった(笑)。
一方、 IIJはすでに多くのサービスを抱えていて、それぞれのサービス担当が自分で基盤を運用管理していました。そして、この運用管理コストを圧縮するために、次世代ホストネットワーク「NHN(Next Host Network)」という共通のサービス基盤を構築しました。仮想化こそされていませんが、NHNにはコマンドを打てばサーバがデリバリされる仕組みが当時からありました。
IIJ GIOとひと口に言っても、IBPSをやっていた人たちが立ち上げたのがIIJ GIO コンポーネントサービス(GI)で、 NHNをやっていた人たちが立ち上げたのがIIJ GIO ホスティングパッケージサービス(GP)とGIのVシリーズ(Linux)の基盤(Type-C)でした。そして、これら別々の源流からできあがった2つのIaaSを、1つのサービスブランドとして見せたのがIIJ GIOだったのです。 GIとGPは、管理方法も、ドキュメントも、デリバリも、運用も、全てが異なる状態でした。よって、リリース後も一部のシステムインテグレーションに慣れていた営業以外は、様子見をしていたように思います。
―― 売る側の理解が追いついていなかった?
立久井:
「1千台もサーバを仕入れて、本当に大丈夫か?」と懐疑的な人もいたでしょうね。しかし、ネットゲーム会社の案件で1千台は一瞬にして売れてしまい、第2期の準備に大急ぎで取りかかりました。
この頃から同時並行で、法人向けのプロモーションにも力を入れ始めました。SaaSとIaaSの違いからデータセンターの紹介まで、クラウドを浸透させるためにさまざまなことをしました。
―― 次のターニングポイントは何でしたか?
立久井:
2012年のIIJ GIO 仮想化プラットフォーム VWシリーズ(VW)を出した時です。VMwareが仮想化基盤として優れていることはわかっていたので、これを使っていつか何かやりたいと思っていました。VMwareの人とも議論して考えた結果、ハイパーバイザー出しであれば、既存の仮想化基盤とも重ならず、独自性を打ち出すことができるという結論に至り、リリースしました。
―― 2015年のIIJ GIO P2でようやくバラバラだった2つのIIJ GIOが統合されたわけですが、その一方で、時代はハイパースケーラー全盛期を迎えました。
立久井:
同時期に「マルチクラウド」というコンセプトも生まれました。鈴木会長と勝社長に「IIJ統合運用管理サービス(UOM)の今後について説明しろ」と言われて、新機能の話を持って行ったら、「よし、記者説明会を開こう!」となった(笑)。ただ、今さらUOMで記者説明会をしたって注目度は低いので、どうすればいいか考えて思いついたのが「マルチクラウド」でした。
「これからIIJは"マルチクラウド"を始めます。AWSもAzureも全て扱います。再販も接続もインテグレートもします。もちろんUOMもマルチクラウドに対応します」と、ある日、突然、言い出したので、驚いた人も多かったと思います。もっとも外資系のパブリッククラウドは、敵対する相手ではなく「共存」していく相手だと、クラウドを開発していた自分たちはよくわかっていました。
―― IIJのIaaS事業は今後、どうなっていくのでしょうか?
立久井:
IIJの強みを「インフラをワンストップで提供できること」とするなら、IaaS事業はこれからもなくならないと思います。ユーザ目線ではSaaSのようにインフラの運用からも解放されたいというニーズは高まると思うので、その対応は考える必要があるでしょう。
展示会における「IIJ GIO」のブース
それでも「IIJ GIO」をやめなかった理由 染谷 直
―― 染谷さんがクラウド本部に転属になった時の状況を教えてください。
染谷:
IIJ GIO P2がリリースされた直後で、さまざまな問題を抱えていました。開発チームが疲弊し、エンジニアが流出したり……。私は中期戦略の担当として、将来のクラウドのあるべき姿を考えていたので、 IIJ GIOのサービス開発・運営を安定させることが急務でした。
クラウド本部に配属されてからは、メンバーに対し「他人事からジブンゴト化(自分事化)へ」と言い続けています。決められた企画や計画をこなすだけでなく、現場にいる人たちが「こうしたい」と考えたことを実現するように、全体のやり方を変えていきました。画期的なアイデアを生み出すこと、生産性をあげることを目指して「デザインシンキング」の手法を取り入れたりしました。また、サービス開発プロセスを標準化して、誰が何をしていて、いつできるのかを、本部内やサービス関係者間で一元的に共有できるようにもしました。やってきたのは、本当に当たり前のことばかりです。
部内では「デザインシンキング」の手法を用いてワークショップが繰り返された
―― 「当たり前」だけど「必要なこと」ですね。IIJ GIO P2は2021年度、 IIJ GIO P2 Gen・2にバージョンアップしましたが、その間、どんなことがありましたか?
染谷:
私が取り組んでいたもう1つの課題が、初期のIIJ GIO設備の老朽化対応でした。心斎橋など古いIIJ GIOサイトはスペックが低く、設備も古くなっていました。検討の結果、リプレイスによって新たに設備投資をしても、採算が取れないことがわかり、サイトをクローズするという決断を下しました。また、当時、国内でAWSが普及し始め、社内にはIIJ GIOの先行きを不安視する空気が広がっていました。
そんな状況でしたから、もしIIJ GIOを続けるなら、設備のクローズ、更改、それにともなうお客さま対応……そういったことが今後は発生しない新たなサービスをつくりたい。その一方でVWの良いところも活かしたい――こういう背景のもと企画したのが「GRP=GIO Re-birth Project」(現在のIIJ GIO P2 Gen・2)でした。
ここには過去の課題を解決して生まれ変わるIIJ GIOという思いが込められています。開発者が企画からプロジェクトマネジメントまでを担い、現場が「これは自分たちのつくったサービスだ」と言えるものになったと自負しています。売れる基盤ができたことで、ようやくサイトクローズ対応の守りから、新規販売の攻めに移ることができました。
―― IaaS単体だと厳しい状況はしばらく続きそうですが、最近は「データハブ」などイノベーションにつながりそうな新たなコンセプトも出てきました。
染谷:
IaaSの今後の進化がGRPを経て見えてきたので、改めてIaaS以外の価値をどうするのか、考えました。 IIJは独自のネットワークサービスを有していることに加え、 AWSやAzureといったパブリッククラウドに対し中立的であるという特徴を活かして、「マルチクラウドのハブとなる」という中期戦略を掲げています。
クラウドデータハブは、新規事業を考えるディスカッションのなかで出てきたテーマを発展させたものです。もともとは「企業間、組織間の個人情報を含む機微なデータを流通させるプラットフォームを提供して企業のDXを推進させる」という内容でしたが、いろいろ調査した結果、技術的にも市場的にも組織をまたぐ仕組みをサービス化するにはハードルが高いことがわかりました。それで、まずは企業内、特にクラウド利用におけるデータ活用をターゲットにしました。アイデアをまとめるにあたり、 情報システム部門や社内各部署にヒアリングして、ヒントをもらいました。
このテーマは、アイデアがまとまってからサービス企画ができあがるまでに1年以上かかっています。データに関する技術領域はIIJにとって経験のない分野だったので、アイデアをかたちにするのに相当苦労しました。プロトタイプをつくるにも、技術者の知見がない、進め方がわからないなど何度も挫折しそうになり、開発者の強い思いが必要だな、と改めて感じました。
維持することはたやすく、イノベーションにリスクはつきものですが、やらなければ何も変わらない。だから、まずはやってみて、行動による自分の変化に関心を持ち、それを楽しむことかなと思っています。