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社長対談 人となり 株式会社ニトリホールディングス 代表取締役会長 似鳥 昭雄 氏

IIJ.news Vol.166 October 2021

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。
第21回のゲストには、株式会社ニトリホールディングス 代表取締役会長の似鳥昭雄氏をお招きしました。

株式会社ニトリホールディングス

代表取締役会長

似鳥 昭雄氏

ニトリ創業者。1944年、樺太生まれ。64年、札幌短期大学を卒業後、北海学園大学に編入。66年、北海学園大学経済学部卒業。67年、似鳥家具店を札幌で創業。72年、似鳥家具卸センター株式会社を設立。78年、社名を株式会社ニトリ家具に変更。85年、社名を株式会社ニトリに変更。2010 年、持株会社(ニトリホールディングス)に移行。16年、株式会社ニトリホールディングス代表取締役会長に就任し、現在に至る。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役社長

勝 栄二郎

つらかった子ども時代

勝:
お忙しいなか、本日はありがとうございます。さっそくですが、似鳥会長の幼少期のお話からうかがいたいと思います。
似鳥:
私は1944年に樺太で生まれ、終戦後の1947年に北海道に引き揚げてきました。
勝:
当時の記憶などはありますか?
似鳥:
樺太では鮭や筋子がふんだんに獲れたので、その味と匂いを記憶しています。あと、引き揚げ船で頭からDDTをかけられて、逃げ回ったことを憶えています。すばしっこかったからね(笑)。
北海道に来た直後は、母方の親戚を頼って道内を転々としましたが、最終的には札幌に落ち着きました。私が小学校にあがる頃、シベリアで抑留されていた父が帰ってきました。
勝:
腕白な子どもだったのですか?
似鳥:
いえいえ、どうしようもない劣等生でした。最近わかったのですが、幼い頃の私は発達障害児だったのです。落ち着きがなく、人の話も聞けない。そして物事を記憶できない。先生の話もすぐに忘れてしまうので、学校の成績は最低でしたし、ひどいイジメにも遭いました。
勝:
そうでしたか。ご家庭ではどんな教育を受けたのですか?
似鳥:
親からは「勉強しろ」なんて言われたことはなかった。勉強より仕事が優先でしたから。母がヤミ米を扱っていて、私も大学卒業まで自転車でヤミ米を配達していました。父は40歳を過ぎてから大工の見習いを始めて、のちにコンクリートの基礎工事を行なう土木会社を営むようになりました。ですから休日は、父の現場仕事を手伝っていました。
唯一得意だったのは珠算で、中学の時に一級を取得しました。しかし、暗記が苦手でしたから漢字がまったく書けない。小学校の高学年まで自分の名前も全部、平仮名でした。授業中はマンガばかり描いていました(笑)。
勝:
発達障害はいつ頃、良くなられたのですか?
似鳥:
小学校6年くらいかな。しかし、その後も勉強はできなかった。当然(学歴も)中卒で終わるはずでしたが、要領だけは良かったので、高校は、志望校の校長先生に夜中にヤミ米を届けて補欠合格を勝ちとり、大学では、論文は「代筆」、授業は「代返」、そのほか大きな声では言えない裏技を駆使して辛うじて卒業しました。
勝:
(笑)
似鳥:
親戚のなかで高校に入ったのは私が初めてでしたし、当時は農家の倅が大学を出るなんて、夢のまた夢でした。奇跡です。運が良かった。
勝:
似鳥会長は強運の持ち主だと思いますが、運には「引き寄せる」という一面もありますよね。
似鳥:
おっしゃる通りです。『運は創るもの』という本も書きましたからね(笑)。大事なのは、めげないで、前向きに生きることです。
勝:
なるほど。
似鳥:
私は会話が苦手で自信もなかったのですが、できるだけ人と接するようにしました。それで大学を出て、広告会社に就職したのですが、半年のあいだに一件の契約も取ることができず、クビになりました。人に対面すると緊張して汗がドッと出てくるのです。
勝:
でも、似鳥会長は歌手を目指したほど歌がお上手ですよね。
似鳥:
母に似て、度胸だけはいい。私の良いところなんて、それくらいですよ。
勝:
そんなことはないでしょう(笑)。
似鳥:
これは発達障害のプラスの効果と言えるかもしれませんが、物事を憶えられない反面、嫌なこともすぐに忘れてしまうのです!だからいつも明るく、前向きでいられる。発達障害に関する講演を頼まれると、記憶や会話が苦手という人に、いつも私の体験を語るのです。「発達障害のお陰で私は成功できた!」と。
勝:
お母様にはずいぶん可愛がられたのではないですか?
似鳥:
とんでもない!父だけでなく、母にも毎日、叩かれました。私がにぶくて、母の言うことをすぐに理解できないので、行動に移せない。口で言ってもわからないから、手が先に出てしまうのです。
後年、家内と結婚してから、「お母さんが言っているのはこういうことよ」、「息子さんはこう言いたいのです」と、母と私のあいだを通訳してくれるようになって、ようやく意思疎通ができるようになりました(笑)。
子ども時代は毎日がつらく、「死にたい」と思ったことも何度もありました。寝ている時だけが幸せでした。
勝:
たいへんな幼少期でしたね。

家具店を開業、そして結婚

勝:
23歳で家具店を開業されました。何かキッカケがあったのですか?
似鳥:
広告会社をクビになったあと、友人のところに転がり込んでいたのですが、最後は行くところがなくなって、一年ぶりに実家に帰った。すると父に「何しに帰ってきた!」と怒鳴られ、一升瓶を投げつけられて……。実家を逃げ出してからは、叔父(父の弟)の会社の世話になって、土木工事の現場監督をしていました。ところが、その飯場(土木作業員の宿舎)が火事になり、そこもクビになってしまったのです。
勝:
たいへんでしたね。
似鳥:
サラリーマンもダメ、力仕事もダメ……八方ふさがって「死ぬしかない」と思いつめていたら、友人から「商売をやってみたら?」と言われましてね。
当時、引き揚げ者住宅が密集していた地区には、なぜか「家具屋」がなかったのです。それで「これはいけるかもしれない!」と思った。しかし、店を開こうにも、素人なうえに23歳の若造ですから、最初は(家具)問屋がまったく相手にしてくれなかった。もちろん資金もありません。親や親戚に頭を下げてようやく100万円を集めて、30坪の広さの一号店をオープンしたのです。
さらに問題だったのは、私自身、人との会話が大の苦手ですから、接客ができないのです!ひと月に60万円売り上げないと赤字になるのですが、どう頑張っても40万円にしかならない。12月に店をオープンして、その冬は母が融通してくれたヤミ米でなんとか生き延びていたのですが、とうとう脚気や鳥目を患ってしまった。栄養失調です。
病気になっても、従業員を雇う余裕などない。困り果てた私を見るに見かねた母が「結婚して嫁をもらったらどうか」と提案してくれた。それで見合いをしたのですが……。
勝:
どうなりましたか?
似鳥:
最初はまったくダメでした。経営も不安定だし、長時間労働で休みは少ない。しかも親が同居ですから、嫌がりますよね。「この調子だと(見合いは)20回はいくな」と覚悟していたのですが、8回目に会った、洋裁学校に通う19歳の女性が「結婚してもいい」と言ってくれた。それが今の家内です。
勝:
強運ですね!
似鳥:
見合いから2カ月後に結婚しました。家内は接客経験などなかったのですが、人当たりが良く、度胸もすわっていた。家内が来てくれたお陰でお客さまも徐々に増えて、なんとか食べていけるようになりました。結局、初年度の売上は1000万円で、2年目は(それまで寝起きしていた)二階を売り場に改装して、売上も1500万円になりました。
勝:
奥様は共同経営者だったのですか?
似鳥:
最初の10年間はそうでした。結婚の翌年、長男を授かったのですが、そのあと何度か家内が流産して……。重い家具を持ったりしますからね。私が配達に行くと、パチンコに寄って帰ってこない。まさに「鉄砲玉」です(笑)。それで家内が免許を取って、配達もするようになっていたのです。しかし、子どもはほしかったので、従業員を雇えるようになってからは、店の仕事は従業員に任せるようにしました。家内には本当に苦労をかけました。
勝:
すばらしい奥様ですね。
似鳥:
家内と一緒になったことで、私も強運の持ち主になったのかもしれません。『あげまん』という映画がありましたが(1990年公開。監督は伊丹十三。主演は宮本信子)、うちの家内も「あげまん」ですね。
私と違って、人を見る目もあって、家内から「あの人はダメよ」と反対された知人に請われて(家内には内緒で)借金の保証人になったところ、夜逃げされてしまって……。私には正直な男にしか見えなかったのですが、家内は直感的にわかったらしい。「自分を飾るような人は信用できない」と。

アメリカ視察で開眼

勝:
1972年のアメリカ視察が大きな転機になったとうかがっています。
似鳥:
アメリカに行く直前、再びピンチに陥っていました。1971年に二号店を出店したのですが、すぐ近くに約5倍の大きさの家具店がオープンしたのです!売上もどんどん減って、「このままでは倒産する」という危機的状況でした。そんな時、たまたま家具業界の人から「アメリカの家具店を視察するツアーに参加しないか」と誘われましてね。その旅費が40万円(!)で当時の私には大金でしたが、なんとか工面して、藁にもすがる思いでアメリカに渡りました。27歳でした。
まずアメリカの生活水準の高さに驚嘆しました。物価が日本の半分から三分の一で、普通のサラリーマンでも70、80坪の家を持っている。しかも家具や内装が全てコーディネートされているのです。「こんな国と戦争したら負けるよな」と思うと同時に「日本は50年以上遅れている」と痛感しました。そしてその時、「日本人の暮らしをアメリカ並みに豊かにしたい!」と決意したのです。それまで利益だけを追求してきた私のなかに「ロマン」が芽生えた瞬間でした。
勝:
たいへんな感銘を受けたのですね。
似鳥:
大きな衝撃を受け、とても感動しました。もしアメリカへ行かなかったら、今の私、そしてニトリはなかったと思います。

経営者に必要な資質

勝:
ニトリさんは「34期連続、増収増益」というすばらしい業績をあげていますが、その秘訣は何ですか?
似鳥:
気がついたら、そうなっていたというだけです(笑)。「10年以上(増収増益が)続くのは珍しいんだよ」と指摘されたのが15年くらい経った頃で、「それなら続けてみようか」と意識するようになりました。
私は「30年計画」を立てています。第一期30年計画が100店舗・売上高1000億円、第二期30年計画が3000店舗・売上高3兆円です。今年は54年目で第二期30年計画の途中ですが、30年をさらに10年、3年と細かく分けて、店舗数・売上高・来店者数の達成度を「数字」で確認するようにしています。
勝:
計画があっても、なかなか予定通りには進まないのではないですか?
似鳥:
次から次へと障害が現れますね。古くはオイルショックや金融危機、最近ではオリンピックの延期など……。仮に目標の達成が一、二年遅れたとしても、そのあと必ず取り返す。計画を微修正するのです。ただし、いちばん長期の30年計画は延ばすわけにはいかないので、そこは死守します。
勝:
具体的な戦略を立てるのですか?
似鳥:
流通業にとってもっとも大事なのは、「商品(価格と品質)」と「店舗(立地と規模)」であり、これは車の両輪に喩えられます。私はこの二つが成功要因の三分の二を占めると考えています。
勝:
店舗は常に増やしていくわけですね?
似鳥:
そうです。店を増やせば、より良い商品を大量に取り扱えるようになり、結果的に価格も抑えられますからね。
勝:
なるほど。
似鳥:
創業当初は3年に1店くらいの出店ペースでしたが、やがて1年に3店、10店、20店と積み上げていき、今年は1年で100店を目指しています。
勝:
すごい勢いですね。
似鳥:
1年に200店の時代がもうそこまで来ています。チェーンストアは、孫悟空が自分の分身を好きなだけつくれるように(笑)、教育をきちんと施した人材と組織を配置していけば、どんどん大きくしていけるのです。
勝:
最近はITを活用したネット通販にも力を入れていますね。
似鳥:
通販はこれからまだまだ伸びると思います。実は、ネット通販には20年前からコツコツと取り組んできたのですよ。
勝:
それは早いですね。
似鳥:
どこよりも早く、新しい動きを取り入れるのがニトリのやり方なのです。最低、ほかより5年先を行くようにしています。最近は携帯アプリに力を入れていて、登録者数が1000万人を超えました。
勝:
将来の戦略を考える専門部署があるのですか?
似鳥:
いえ、私自身が考えます。未来に向けた「ビジョン」を作成し、10年、20年、30年先を見据えて、事業展開を考えています。遅すぎても、早すぎてもダメだし、万が一、失敗した時は早めに損切りする。そこは計算が必要ですから、挑戦や改革は直接、私が指揮します。
勝:
似鳥会長の後継者はどうされるのですか?
似鳥:
私は、創業家経営は一代限りと決めているので、後継者問題は悩ましいですね。自分で起業して苦労した経験がないと、本当の経営はできない……。例えば、有望な人材を選んで、子会社の社長として経験を積ませながら何人かで競わせて、そこから選ぶといったことも考えないといけないかもしれませんね。
勝:
では、改めてうかがいますが、経営者にはどんな資質が必要ですか?
似鳥:
資質はそれほど重要ではなく、10年、20年先の計画を立て、常に逆算し続けて確認を繰り返しながら、明るく前に進む度胸があればいいと思う。それより経営者としての実務経験が大事です。私は資金も知識もゼロからスタートし、過去に何度も会社が潰れる一歩手前、生きるか死ぬかといった波瀾万丈の体験をしたからこそ、斬新な発想が生まれてくるのです。ですから、若い人には修羅場をくぐらせるのがいちばんいい。
勝:
いわゆる「創業者」は、今、似鳥会長がおっしゃったように、全てを賭けてやってきた方が多いですが、普通のサラリーマンはなかなかそういった経験は積めないですよね?
似鳥:
小さい会社でもいいと思うのです。我々のグループに「N+(エヌプラス)」というアパレルがありまして、その社長には40代の社員を抜擢しましたし、飲食店の「みんなのグリル」――まだ単独の会社ではなく事業部ですが、こちらも40代の社員に任せて、「100店まで増えたら(事業部長から)社長にする!」とハッパをかけています。
勝:
そういう方法もあるのですね。
似鳥:
まだまだ仮の経営者ですが、赤字からスタートして黒字化し、上場するために、週単位で数字をチェックして、経営に対する感覚を養わせています。ニトリの社員は若い世代ほど優秀なので、彼らを徹底的に教育して、20年で一人前の経営者に育てることを目指しています。
勝:
若い人にチャンスを与えることは必要ですね。
似鳥:
私の父は「人生には大きなチャンスが3回ある」と言っていましたが、小さなチャンスを見逃さないことも重要です。もし失敗しても会社が潰れない程度であれば、「授業料を払って学んだ」とあきらめられる。会社経営には「やってみなければわからないこと」がたくさんあります。成功の確率が7割、8割なら、誰でもやります。私は2割、3割の段階で勝負します。

社会貢献を通した豊かさの実現

勝:
似鳥国際奨学財団、北海道応援基金、似鳥美術館など、社会貢献に尽力されていますが、こうした活動の意義をどのようにお考えですか?
似鳥:
私が考えている広義の社会貢献は、ニトリのような流通業が良い商品を安く提供すれば、物価が下がりますから、たとえ給料は上がらなくても、人々は豊かな暮らしを維持できます。これも社会貢献の一つのかたちであり、この点に関してはある程度、実現できたと考えています。
そして60歳を過ぎてから「もっと直接的な社会貢献をしよう」ということで始めたのが、勝社長が挙げてくださった財団や基金です。例えば「似鳥国際奨学財団」は、これまでお世話になったアジアの国の学生に恩返ししたいという思いから17年前に設立し、私の持ち株400万株(株価換算約800億円)をもとに、配当金5億円で運営しています。「北海道応援基金」は地元・北海道を盛り上げるためのもので、これ以外にも道内の優秀な若者の流出を防ぐために北大の学生をサポートしたりしています。さらに、スマトラ島沖地震、四川大地震、東日本大震災など、国内外の被災地に送った義援金などもあり、それらを合わせると100億円以上をこうした活動に投じています。
勝:
小泉(純一郎)元首相からうかがったのですが、福島原発の救援活動で被爆した米軍兵への支援を募る講演をしていたら、似鳥会長がいらして、翌日、1億円を振り込んでくれた、と。
似鳥:
小泉さんの話を聞いて感動し、その場で寄付の意向を伝えました。

体内年齢は53歳!

勝:
ご趣味はありますか?
似鳥:
ゴルフが大好きで、昨年は120ラウンドほど回りました。半分は家内と一緒です。
勝:
何歳から始められたのですか?
似鳥:
48歳です。ゴルフをやっていると銀行がお金を貸してくれないとか、経営者は趣味を持つなとか言われた時代でしたから、遅くなりました。筋トレも一週間に4回やっています。
勝:
ほぉ!
似鳥:
うちの会社にジムがありまして、月火水木はジムで筋トレ、金土日はゴルフ。あとは、ボクササイズです。
勝:
ボクササイズですか?
似鳥:
ボクササイズは先生に来てもらって、三人いる会社の運転手も一緒にやるんです。彼らはガードマンも兼ねていますからね。お陰で体調もいいし、体脂肪率も20パーセント前後をキープしています。
勝:
体内年齢も相当若いのでは?
似鳥:
53歳(!)です。ちょっと若すぎですね(笑)。

少年よ大志を抱け

勝:
最後に若者へのメッセージをお願いいたします。
似鳥:
昔はよく「少年よ大志を抱け」と言いましたが、今の若い人は夢がないねえ。私が27歳でアメリカに行って「ロマン」と「ビジョン」に目覚めたので、今でも毎年約1200人の若者をアメリカに連れて行っています。(※新型コロナウイルス蔓延以前)
うちの社員には「30歳・40歳・50歳・60歳・70歳になった時、どんなポストに就いて、社会に役立つどんな仕事をしているのか、どれくらい給料をもらっているのか」という「夢」を書かせるようにしているのですが、その内容がしみったれていましてね(笑)。 「部長」とか、せいぜい「ゾーンマネジャー」や「役員」です。私は「50歳で『ニトリの社長になる』、最低でも『グループ会社の社長になる』と書きなさい!」と言っています。とにかく若者には「大志」を持ってほしいです。
勝:
本日は楽しいお話をありがとうございました。


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