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社長対談 人となり 政治家、元衆議院議長 大島 理森氏

IIJ.news Vol.183 August 2024

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。第29回のゲストには、政治家として衆議院議長をはじめ、多くの要職を歴任された大島理森氏をお招きしました。

政治家

元衆議院議長

大島 理森氏

1946年9月6日、青森県八戸市生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。70年から74年まで毎日新聞社勤務。75年4月、青森県議会議員選挙で初当選。83年12月、第37回衆議院議員総選挙で初当選。90年2月、内閣官房副長官。95年8月、環境庁長官。99年10月、衆議院議院運営委員長。2000年7月、文部大臣、科学技術庁長官、原子力委員会委員長。00年12月、自民党国会対策委員長。02年9月、農林水産大臣。05年11月、衆議院予算委員長。07年8月、自民党国会対策委員長。09年9月、自民党幹事長。10年9月、自民党副総裁。14年9月、衆議院予算委員長。15年4月、衆議院議長。17年11月、衆議院議長(再任)。21年8月、第49回衆議院議員総選挙には出馬せず、引退する意向を表明。衆議院議長在職日数は2336日(歴代最長)。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役 社長執行役員

勝 栄二郎

大家族で育った幼少期

勝:
大島先生は40年以上にわたり政治家として活躍され、2021年に第一線を退かれました。本日、まずおうかがいしたいのが幼少期のお話でして、どういったご家庭・ご両親のもとでお育ちになられたのでしょうか?
大島:
1946年に青森県八戸市で生まれました。実家は大きな農家で、兄が2人、姉が3人、弟が1人いました。伯父は戦後6期、衆議院議員を務めました。父は県会議員で、外での仕事が忙しかったので、家業は母が切り盛りしていて、農作業を手伝ってくれる人が数名、住み込みで働いていました。とにかく人の出入りが多い家でした。

近所にお酒を飲みたくてやって来るお爺さんがいまして、普段からイヤだなあと思っていた。ある日、たまたま家に誰もいなかったので私が応対しました。すると案の定「酒だ!」というので、水を出したら、「この野郎!」と怒鳴られて、追いかけられたこともありました。
勝:
(笑)
大島:
小学生の頃、地元の中核的な駅だった国鉄・東北本線の尻内駅(現在の八戸駅)の近くに国鉄職員の官舎があり、そこに住んでいた友人のお宅に遊びに行ってみると、私の実家とまったく雰囲気が違う! “家族だけの家”というのでしょうか、とても新鮮で羨ましいなあと感じました。当時の国鉄職員はパスを持っていて「仙台へ遊びに行った」など、自慢話をいろいろ聞かされる。一方、私のほうは家族だけで外食したり、旅行するといったことは皆無でした。賑やかな家で育ったので寂しさを感じることはなかったですが、自分を取り巻く「社会」があって、そのなかでうまくやっていく“術”をいやが応でも身につけざるを得ない――そんな雰囲気のなかで育ちました。
勝:
(後年、政治家になってから発揮される)「調整力」を当時から備えていたのではないですか?
大島:
そんな大げさなことではないですよ(笑)。家族と暮らすにしても、友達と遊ぶにしても、集団には共通のルールが必要ですよね。ルールをつくって、それを守っていくことの大切さを自然に学んだのだと思います。

政治家の家系

大島:
中学2年の時、ある先生から「弁論大会に出ろ」と言われた。「お前の家は政治家なんだから」というのがその理由で、すごくイヤな気分になりました。しかし、先生の言うことは命令でしたから、学校の裏に広がっていた田圃に連れて行かれて、「大きな声を出せ!」と。人前で話すのも苦手でしたし、県会議員だった父が学校の入学式や卒業式に来賓としてやって来て挨拶するのですが、それも恥ずかしかった。
勝:
多感な時期ですからね。
大島:
同じ頃、60年安保のデモに参加していた樺美智子さんが不慮の死を遂げられた。そのニュースは青森の地方紙でも1面で報じられ、私の脳裏に焼き付きました。当時の私はクラブ活動でテニスをやったり、弁論大会に担ぎ出されたり、そろそろ受験のことも意識し始めたりと、まあ、普通の中学生活を送っていたのですが、樺さんの事件は、おそらく同級生のなかでももっとも強い感受性で受け止めたと思います。それを機に、自分はこうして田舎で平和に暮らしているけど、「東京ではいったい何が起こっているのだろう?」と真剣に考えるようになりました。
勝:
のちの政治活動につながる何かが芽生えたのでは?
大島:
その時点では政治家になろうなんて、まったく思わなかったですけどね。

慶應から毎日新聞、そして政界へ

勝:
高校は地元の進学校であった八戸高校へ、そして大学は慶應義塾に進まれました。
大島:
八戸高校は父も兄も通った高校でした。家から1時間近くかかるうえに、応援団の副団長もやっていたので、勉強はあまりしていませんでした。

うちの家系は国立より私学に進むものが多く、私も「慶應か早稲田に」と思い始めたのが高校2年くらいでしたが、担任からは「君の成績じゃ無理だ」と言われていた。しかし3年生になってから猛烈に勉強して、なんとか慶應に合格できました。ところが入学に際して、自分では政治学科にマル「◯」をつけたつもりが、間違って法律学科を選んでしまったのです。受験体制から吹っ切れたというのでしょうか、大学生活を満喫しようという気持ちに変わりました。

勉強もせず、東京では楽しく過ごしていたのですが(笑)、当時、全共闘が唱えていた「全てをひっくり返して新しい世の中をつくる」といった主張には抵抗を感じていました。自分の出自が影響していたのだと思います。

大学2年の時、父が落選しました。実はその選挙でポスターを貼ったり、運転手を務めたり、選挙の手伝いを初めてしたのですが、負けた父の姿を目の前で見ることになった。その瞬間、政治の道を歩いていた父の存在が、初めて自分の心のなかにドーンと入ってきたのです。負けた姿を見て――。

父の古い支持者だった方が、後年、私がその時「俺もやるぞ!(自分も政治家になる)」と言ったというのですが、まったく記憶にありません。ただ、負けた翌日、ポスターを回収しに行った時に、悔しさ、無念さ、ある種の恥ずかしさを感じたことはよく憶えています。ナポレオンを突き動かしたのはコンプレックスだったと言われていますが、人間の行動の奥底にはそういった情念みたいなものが隠れているのでしょうね。あの体験を通して初めて“政治”が自分の心に根を張った気がします。
勝:
ご兄弟は政治の道には進まれなかったのですか?
大島:
2人いた兄のうち、1人は病弱だったので……。
勝:
そうでしたか。
大島:
その時、残された大島の家は自分が継がないといけないという覚悟があり、それが私を支えてくれました。
勝:
大学卒業後、毎日新聞社に就職されました。
大島:
大学では一応、司法試験を目指して勉強したのですが、まったく歯が立たなかった。父に頼んで1年留年させてもらい頑張ってみましたが、結局、法曹界は諦めて、1970年に毎日新聞に就職しました。文章を書くのもそれほど得意ではなかったので、編集局ではなく、広告局に配属されました。

1970年という年は、よど号ハイジャック事件、三島由紀夫の自決、成田闘争など騒々しい出来事が続き、大阪万博が終わって、高度経済成長もそろそろ終焉に向かいつつありました。

政治的には、非自民・革新系の首長――東京都の美濃部亮吉さん、大阪府の黒田了一さん、京都府の蜷川虎三さんらが活躍する一方、「日本の政治体制はどこへ向かうんだろう?」という不透明感が漂っていました。
勝:
毎日新聞社には何年お勤めになられたのですか?
大島:
4年半です。新聞社も「本紙」メインの経営から、情報発信のあり方が変わりつつあった時期でした。毎日新聞でもコミュニティペーパーみたいな新しい媒体をつくることになり、その部署に私も配属されました。そうしたなか「このままでいいのか?」「自分の人生はこれからどうなるんだろう?」と思い始めた。けっして仕事が嫌いになったわけではないのですが、将来に対する焦りというか、漠然とした不安を感じ始めていました。

そして1974(昭和49)年の年初、実家に帰省した折に、翌年の4月に予定されていた統一地方選挙(県議選)に出たいと、父に告げました。

口数の少ない父でしたから“親子の対話”なるものはしたことがなかったのですが、「選挙はお前が考えているほど甘くないぞ」とだけ諭され、出馬に関しては改めて考えようということになり、その場では結論は出さなかった。
勝:
お父様も内心、嬉しかったのではないですか?
大島:
そう思います。ところが、その年の4月、父が突然、他界してしまったのです。9年半も地元から離れていたうえに、頼りにしていた父に先立たれ、一瞬、決意が揺らぎそうになりましたが、私なりに熟慮して、初盆をすませた頃には出馬の意志も固まり、9月に(毎日新聞に)退職届を出して青森に帰りました。

父以外の身内には、選挙に出るという考えは伝えていなかったので、母には最初、猛反対されました。「我が家はもう何十年も世の中のために尽くしてきた。新聞社で働くのも十分立派なことじゃないか。なんでお前が選挙に出るんだ?」と。母は父の苦労をそばで見ていたので、政界は懲り懲り……という気持ちが強かったのでしょう。他方、兄と姉は理解を示してくれて、1975年の県議選に出馬することになりました。
勝:
そして初の選挙で見事、当選された。
大島:
12人中2番目でした。地元のテレビ局や新聞社は予想外だったようで、当選が決まってからようやく取材に来てくれました。

幾多の逆境を乗り越えて

勝:
国政への最初の挑戦では落選も経験されました。
大島:
1980年の衆院選に初挑戦したのですが、落選しました。次に再挑戦して初当選するまでの3年半は、私にとって“宝”とも言える貴重な時間になりました。
勝:
どういった経験をされたのですか?
大島:
80年の選挙は、いわゆる「ハプニング解散」後に実施されたもので、前年の衆院選から半年しか経っておらず、前回落選された熊谷(義雄)先生の推挙がありましたが、何の準備もしていませんでした。自民党の公認を得て、八戸では多少知られていたものの、他の地域ではほぼ無名でした。当初は「せいぜい次々点」という予想でしたが、約6000票差の次点に食い込んだ。結果的には負けましたが、「次はやれる」と手応えを感じることができ、けっして暗い雰囲気ではありませんでした。もしこの選挙に勝っていたら、鼻持ちならない政治家になっていたに違いなく、33歳で挫折を経験できたことが、長い議員生活の礎になったと感じています。

そうは言っても、それから3年半の浪人生活は、肉体的にも精神的にも非常に過酷でした。後援会活動に精を出し、毎晩のように座談会に参加したり、懇談会や会食に顔を出すなどしているうちに疲労が蓄積し、1983年の春、口から水がこぼれ落ちる状態で、顔面麻痺になっていました。地方統一選で同志の応援に行かねばならない時でしたが、後援者の助言で即、入院し1カ月間休養させてもらいました。この時の経験が自分を強くしてくれました。

そして同年12月の衆院選でトップ当選を果たすことができました。若さ以外に何もなかった私を支えてくださった支援者、そして縁者・家内には今でも感謝しています。
勝:
大変な経験をされて、一回り大きくなられたのですね。

衆議院議員として邁進する

勝:
大島先生は長い議員生活のなかで、水俣病訴訟に取り組まれた環境庁長官をはじめ、国会対策委員長や自民党副総裁、そして衆議院議長といった数々の要職に就かれました。印象深い体験談などをお聞かせいただけますか。
大島:
1990年2月、第2次海部内閣で内閣官房副長官に就任しました。初めての役職で、大したことはできませんでしたが、いい勉強をさせていただいた1年8カ月でした。
勝:
初入閣は1995年8月、自民・社会・新党さきがけの3党連立による村山改造内閣の環境庁長官でした。
大島:
村山(富市)総理から、懸案だった水俣病訴訟に「全力で取り組んでくれ」と指示されました。すでに用意されていた「3党合意」に沿った“早期解決”が求められていたのですが、内容面で若干、不整合なところが残されていた。そこで私は「これが政府与党の結論です」と言えるものになるまでは、現地(熊本)には行かないという方針でのぞみました。中途半端な姿勢で各団体・地域・弁護団と協議すると「あれもやります、これもやります」といったふうに、うかつな発言をしかねないからです。
勝:
担当大臣として、なかなかむずかしい決断だったのでは?
大島:
おっしゃる通りです。そのあたりの線引きは非常に悩ましかったですが、患者さんの気持ちをどう受け止めて対応すべきかという点に重きを置いて交渉した結果、第1次政治解決となりました。
勝:
大島先生の「調整力」が遺憾なく発揮されたわけですね。
大島:
2000年7月、第2次森内閣では森(喜朗)総理から文部大臣と科学技術庁長官を兼務するよう命じられました。5カ月という短期間でしたが、小渕内閣からの課題であった教育改革国民会議を軌道に乗せると同時に、翌年に控えていた両省庁の統合に向けても一定の貢献ができたと思います。

失敗談としましては、第1次小泉内閣で農林水産大臣を拝命した2002年に「秘書の口利き疑惑」を週刊誌で報じられました。

農水大臣は国会議員になった時から一度はやってみたいと思っていたので、「坂の上の雲」的な自惚れが生じていたのかもしれません。足元の監理が至ってなかったのです。秘書の不祥事とはいえ、初めてのスキャンダルでしたから、夜も眠れないくらい辛かったです。

最後は「こういうこともあるんだ」「いい経験になった」と思い直して、小泉(純一郎)総理や福田(康夫)官房長官からは辞める必要はないと言ってもらいましたが、補正予算が通ったタイミングで大臣を辞任しました。
勝:
気持ちのなかでは葛藤もあったのでは?
大島:
もちろんです。しかしそんな苦境のなかでも、青森にいた家内は心配して東京まで励ましに来てくれましたし、浪人時代からの後援者がわざわざ手紙をくれた時などは、涙が出るほどうれしかったです。
勝:
大島先生が自民党副総裁だった2012年には、自民党・民主党・公明党による「3党合意」(社会保障と税の一体改革に関する合意)の取りまとめに尽力されました。
大島:
あの時は、野田(佳彦)首相や谷垣(禎一)自民党総裁らが激しい議論を戦わせ、合意に至る道程は容易ではありませんでした。しかし、国家・国民の将来のためにも消費税の引き上げなど財源確保は避けて通れない状況でしたので、谷垣先生のリーダーシップのもと、副総裁としてさまざまな意見の調整・集約に奔走し、なんとか合意に漕ぎ着けることができました。

衆議院議長として関わった最重要案件

勝:
大島先生は歴代最長となる2336日、衆議院議長として在職されました。記憶に残っている出来事などありましたら、ご紹介いただけますか。
大島:
安倍(晋三)総裁をはじめ、各会派の推挙で2015年4月から21年10月までの6年半にわたり衆議院議長を務めました。その間のもっとも印象深い仕事は、天皇陛下(現・上皇陛下)の生前退位とそれにともなう特例法の制定に従事したことです。

2016年8月、天皇陛下が生前に皇位を継承したいとの意向を表されて、驚くと同時に早急に対処する必要が生じました。天皇制に対してはさまざまな考え方がありますが、国民の総意にもとづく合意を目指すなら、国会の全会一致もしくは可能な限り多くの政党から了解を得ることは必須であり、そのための意見の集約は衆参両院の議長のもとで行なうべきだと考えました。

日本の政治に対しては批判的な声が多々あることは承知しておりますが、こと“合意”に関して、それに向けてとことん努力すれば、不可能でないばかりか、分断や対決が取り沙汰されている昨今において、合意形成という手法は日本の民主政治の優れた一面とも言えます。

本来、議長はそういったことにあまり口出しすべきでないとの見解もあるでしょうが、国権の最高機関は立法府であり、立法府の代表が議長であるなら、各党・各会派に合意の方向性を提示し、意見の集約を図るうえで、公平公正な立場から議長がものを申してもいいのではないかと判断しました。そして粘り強く話し合いを重ねた結果、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」は、衆参両院とも(自由党を除く)全党・全会派の賛成を得て可決されました。

あの特例法の時のように、主義主張が異なる与野党が歩み寄れたことは、今後の国会運営の先例になり得るでしょうし、最重要案件で国民の総意をまとめる際にも参考にしてほしいです。
勝:
最後に、これから日本を背負って立つ若者にメッセージをいただけますか。
大島:
挑んで失敗した時、失意の底にいる時にも、耐えて、学ぶことを忘れてはいけません。耐えるだけではダメで、同時に学ぶことも大事です。「必ず春は来る」と信じて、また挑んでいただきたいです。
勝:
本日は、素晴らしいお話をうかがうことができました。ありがとうございました。


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