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IIJ.news Vol.187 April 2025
株式会社インターネットイニシアティブ
代表取締役 会長執行役員 鈴木幸一
どの家庭でも、壊れてしまった生活の基盤を、ほぼゼロから立て直すことが最優先だった。戦後すぐに生まれた私の幼少期は、子供などにかまっていられない時代だった。横浜の中心部で育った私の家の近くには、米軍の施設が集まっていた。競馬場を作り変えたゴルフ場の緑に囲まれた駐留米軍の参謀本部、広大な芝生に囲まれた駐留軍の住居、等々。
私が初めてゴルフクラブを手にして、ティーグラウンドからボールを打ったのも、ゴルフ場を囲っていた金網の隙間からこっそり入り込んで遊んでいた時に、ラウンドをしていた駐留軍の方に「僕、打ってみるか」、たぶんそんなことを英語で話し掛けられて、素直に打たせてもらったのが最初だった。「ナイス・ショット!」、品のいい金髪の紳士の言葉とショットの感触が、今でも忘れられない。まだ小学生にもなっていない頃のことである。
わが家では、ただ1人の幼い子供だった私は、小学校の高学年になった時から中学生時代を通じて、夏休みになると、伊豆半島の先端、下田の先にあった海に近い家に預けられた。真っ白に広がる砂浜、日が暮れると、懐中電灯を持たずには歩けないほどの暗闇になって、星が空一面に輝く、そんな田舎である。老いたおじさんとおばさんのほかには誰もいない空間で、ひと夏を過ごした。本を読むか、海辺でぼんやりしているか、そのほかに時間の過ごしようもなかった。
当時、子供が1人で下田に行くのは、大変なことだった。朝早く横浜駅に行き、伊東駅行きの湘南電車に乗る。伊東駅に着くと、そこから下田行きのバスに乗って、海沿いの舗装もされていない山道を、それこそガタゴト、延々と走り続ける。疲れ切って下田に着くと、夕闇が近くなっている。下田ではバスの停留所に、これからひと月ほどお世話になるおばさんが待っていて、そこからまた、西海岸のほうに向かうバスに乗り変えて、たしか「入田」という停留所で降りて、真っ暗になった道を10分ほど歩く。そこがひと夏を過ごす家だった。まず、お風呂に入れられ、夕食を食べる。その夜からひと月ほど、単調としか言いようのない夏の日々がはじまるのだった。なぜ、その田舎の家に預けられることになったのか、未だにわからない。
当時、下田の町を歩くと、すぐに目についたのは、「唐人お吉」の看板であった。言うまでもなく、日本における初代の米国総領事で、日米修好通商条約を締結した外交官タウンゼント・ハリスの世話をした下田芸者、お吉の悲劇の話である。駐留軍の参謀本部があった近くで育ち、下田で毎夏を過ごした私にとって、米国の存在は他の地域に育った方々より、多少は身近だったはずだが、そうでもなかったことを知ったのは、中学3年生の頃、私の錯覚を知った時である。ペリーに率いられた黒船の襲来によって、その後の日本が変わっていったのは周知のことだが、その黒船は、太平洋を渡って日本に至ったのではなく、大西洋からアフリカ大陸の最南端を回って日本に来たということを知ったのである。思い込んでしまうと、初歩的な間違いに気づかないようだ。
トランプ政権が次々と発する施策を知るにつれ、NATOの枠組みをはじめ、世界の歴史がまったく異なった様相になるのではないかという不安が大きくなり、滅多に思い出さないことが記憶の底から湧いてくるようだ。
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