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IIJ.news Vol.174 February 2023
株式会社インターネットイニシアティブ
代表取締役会長 鈴木幸一
1月の半ば過ぎから、厳しい冷え込みが続き、あっという間に豆まき、節分である。
年が明けて、元旦が来ても、普段と変わらない過ごし方だった。私の住まいは、集合住宅の高層階にある。まだ真っ暗な4時頃に目が覚めたので、珈琲を飲み続ける。1年という時間が夢幻のように、あまりに早く消え去ってしまったことに驚きながら、誰もいない、物音ひとつしない居間で、3時間近くぼんやりしていた。7時前になって、新年の初日の出を見る。
This house is empty now
Thereʼs no one living here
You have to care about
This house is empty now
この家は今は空っぽだ。
心を傾けるべき人は
もう住んでいない。
この家は今では空っぽだ。
(『村上ソングズ』村上春樹 和田誠 より)
元日の朝から、ふと口ずさんだのが、この歌だった。高齢者になって、鮮やかな初日の出を眺めながら、こんな歌詞を口ずさむとすれば、すべて場違いな、侘しい老境となるのだが、実際は異なり、年齢を忘れた日々を送っている私には、まったく似合わない話になってしまう。
新年早々、南極や北極の巨大な氷が、地球を危機に陥れるほど激しく溶解し、その速さと量が、どれほど深刻な影響を地球にもたらすものか、迫力のある映像と数値予測で示すテレビ番組を眺めていた。ここまできたら、もう対応の仕様がないなあと、思考を停止したまま、ベッドにもぐりこむ。
地球という惑星で、智を磨いた稀な生物として存在していた人類が、自らの欲望におぼれて、その存続を危うくしているのは、寂しいとしか言いようがない。家が空っぽになったり、部屋が空っぽになったりして侘しさや悲しみを覚えるのは、それは人間が生きている証でもあるのだが、人間が消えて、地球が空っぽになってしまうのは、救いようのない愚かさとしか言うほかない。
昼過ぎ、1階にある郵便受けまで年賀状をとりに行き、テーブルで眺める。「本年をもって年賀状の交換を終わりにさせて頂く」、そんな言葉が何枚もあった。70歳を過ぎれば、十分な暇ができるはずなのに、賀状を記すことも省略したくなるのかなあと、不思議に思うのだが、余計なお世話で、すべて打ち切り、そんな思いが強くなるのかもしれない。私のように、生きている限り、省略への欲求をいっさい断ち切って、同じような暮らし方を続けようという人間には、残念なことである。二度と会う機会もないだろうと、友人や知人に、近況というか、生きているお知らせとして、賀状を書き続けるのも悪いことではないと思うのだが、人それぞれで、そこに異を挟むのは、余計なお世話なのだろう。
若い頃、とても尊敬していた経済人と知り合い、折に触れて酒席をご一緒する機会があったのだが、何十年を経た今でも、記憶に残っている言葉がある。
「若い頃から、私は9月に入ると年賀状を書き始めることにしている。実際に投函するまでに100日以上もある。毎晩、酔っているのだが、1人ひとり、丁寧に思いを込めたひと言を書く。人との付き合いは、それくらい大切にしないといけない」。
いまだに私は12月に慌てて文字を走らせる年賀状しか書いたことがないのだが、1年に1度、この言葉を思い出しては、考え込む。実際の行動に移せないまま、何十年も過ぎてしまった。
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